福嶋亮大 × 加藤喜之が語る、「宗教とメディア」の現在 AI時代に“遠さ”は取り戻せるか

福嶋亮大×加藤喜之「宗教とメディア」対談

 現代のメディア環境は、私たちの「何を信じるのか」という感覚そのものを大きく揺さぶっている。批評家の福嶋亮大氏は『メディアが人間である』(blueprint)で、19世紀の社会思想から21世紀の情報空間までを横断しながら、マーシャル・マクルーハンの「メディアがメッセージである」という言葉を発展的に読み替え、メディアと人間の関係を問い直した。他方で、宗教学者の加藤喜之氏は『福音派』(中央公論新社)で、アメリカ政治にも大きな影響を与えるキリスト教福音派の歴史と思想をたどり、その信仰が現代社会や公共空間にどのような力を及ぼしているのかを描き出している。
  一見すると別の領域を扱う2冊だが、両者をつなぐのが「宗教とメディア」という主題だ。宗教は古くから言葉、書物、イメージ、音楽といったメディアを通じて広がってきた。そしていま、AIやSNSの時代においては、逆にメディアの側が宗教的な機能を帯びつつあるのではないか――。そうした問題意識のもと、福嶋氏と加藤氏は、宗教改革と印刷メディア、偶像崇拝と言語中心主義、受肉という神学的発想、映画や読書が持っていた身体性、さらにはトランプ以後の政治と情報環境までを射程に収めながら、現代の「信じること」のあり方を語り合った。

メディア革命と宗教改革

福嶋亮大『メディアが人間である』(blueprint)

福嶋亮大(以下、福嶋):最初に言うと「宗教とメディア」は恣意的なテーマ設定ではない。むしろこの両者は不可分なんです。20世紀前半のメディア論の開拓者はヴァルター・ベンヤミンですが、その理論はユダヤ神秘主義と切り離せない。かたや20世紀後半のマーシャル・マクルーハンはカトリックでしょう。彼のグローバル・ヴィレッジという有名な考えにも、地球規模のミサというヴィジョンが反映されている。つまり、メディア論は最初から神学や宗教の問題を含んでいるわけです。

 20世紀のメディアは、遠隔性と不特定性と情報性をどんどん加速させてきた。つまり「情報をより遠くに、より分け隔てなく、より大量に発信する」という仕組みそのものを「信仰」させてきた。シリコンバレーの企業家は、情報を神の座に据えたわけですね。今のAI論はほとんど新興宗教みたいな感じだけど、それはこのメディアの宗教性の帰結です。今回の『メディアが人間である』ではそこまで深くは扱っていませんが、もし続編を書くなら「メディアと宗教」しかない、とは思いますね。

加藤喜之(以下、加藤):『メディアが人間である』を読んで、福嶋さんはついに神学をやり始めたのだな、という印象を受けました。もちろん専門的な神学の議論そのものではないのですが、人文学の領域の中で神学的な発想をどう使うのか、その射程の広さに驚かされました。21世紀のメディアを考えるうえで、宗教学というよりむしろ神学的な思考が導入されている。その点が非常に面白かったですね。

福嶋:現代において支配的なメディアが変わるというのは、ある種の「宗教改革」に近い出来事だと思うんです。活字からデジタルへ移行することは、単なる技術革新ではなく、人間が何を信じ、何にアクセスし、どこに信頼を置くかという枠組みを変えてしまう。そうなると、メディア論の問題は、神学的な思考と構造的に似てくるんですね。

 その一方で、宗教の改革者のほうもメディアを必要としてきた。たとえば、ルター訳のドイツ語聖書は有名だけど、それだけじゃなくて、ルターの肖像画を同時代の画家ルーカス・クラナッハが制作する。しかも、その肖像画も時期に応じてさまざまなバージョンがあって、それらが宗教家としての多面性を伝達する。要は、ルターは自分の「顔」を広く流通させた最初の宗教家なんです。さらに、ルター訳の聖書のブックデザインもクラナッハの工房が手がけていた。現代風に言うと、クラナッハはただの画家ではなく、宗教改革を広めたプラットフォーマーでもあった。16世紀の宗教改革は、同時にメディア革命でもあったわけです。

加藤:15世紀末から16世紀初頭にかけて、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷が広まり、宗教改革と結びつくことで決定的な力を持つようになりますね。グーテンベルクは聖書の印刷に人生を懸けましたが、商品として流通したのは贖宥状のような一枚刷りの印刷物です。その状況への批判としてルターのパンフレットが登場し、広く読まれていった。最初は聖書という重い書物、そして一枚刷り、さらにパンフレットへという変化の中で、新しい宗教運動が立ち上がっていく。この流れ自体が、宗教とメディアの関係を象徴していると思います。

 重要なのは、「商品としてのメディア」という側面です。当時は初期資本主義が浸透し始めた時代で、売れるメディアであることがそのまま思想の拡散力につながった。パンフレットは持ち運びができ、しかも識字率が高くない社会では、読める人が内容を口頭で他者に伝える。つまり、印刷物としてのメディアと、それを媒介する人間というメディアが重なり合う「二重のメディア構造」が生まれていたんですね。

加藤喜之『福音派』(中央公論新社)

福嶋:ルターはモバイルなメディアを推進したわけですね。そして、モビリティが高まると、神や宗教へのアクセスの仕方もおのずと変わってくる。加藤さんの『福音派』でも、ラジオやウォルマートが布教の回路になったことが的確に指摘されています。

 それとも関わりますが、宗教とメディアの関係の起源は、おそらく偶像崇拝でしょう。偶像は信仰を可能にする一方で、神へのアクセスの仕方を変え、時に歪めてしまう。信仰を作り出しながら、同時に信仰を変質させる。その両義性こそ、偶像ひいてはメディアの本質だと思います。だからこそ宗教家は、メディアに対してきわめて敏感です。ローマ教皇が生成AIにしきりに警鐘を鳴らしたりするのは、偶像崇拝批判として考えれば当然なんですね。

加藤:まさにその通りで、言語メディアと視覚メディアの違いは、偶像崇拝の問題とも深く結びついています。宗教改革期のカルヴァン派は、徹底した言語メディア主義者でした。人文主義の影響のもとで言葉を重視し、視覚や身体性を排していく傾向が強かった。一方のルターは、音楽や絵画を含めて感覚的なものを複合的に用い、人々を宗教的に形成していくタイプだった。

 言語を重視しすぎれば、身体性が軽視され、グノーシス主義(身体を悪と見做したキリスト教の異端)的な方向に傾いていく。一方で身体を神そのものとみなすような偶像崇拝もある。その両極のあいだで、キリスト教は「受肉」という中間項を守ろうとしてきたわけです。福嶋さんの本が面白いのは、21世紀のAI的メディアがまさに言語メディアへ過剰に傾いた世界として捉えられている点です。すべてが精神的なものへ還元されていくような状況の中で、受肉したイエスとは何か、身体的なものをどう捉え直すのかという問いが再び切実になっている。

福嶋:そうですね。メディア革命は宗教改革とアナロジーで結べる部分があるので、ソーシャルメディアやAIが飽和したときに、新しい宗教改革のようなものが起きたら面白いな、という野次馬的な関心もあります。既存の宗教と既存の情報メディアをともに批判するような宗教家、いわば「21世紀のルター」の出現を想像したりもするんです。

 そもそも、キリスト教と一口に言っても、福音派の影響が強いアメリカと、カトリックや聖公会の中枢で比較的リベラルな方向が見えるヨーロッパでは、様相が違ってきているでしょう。この場が聖公会にルーツをもつ立教大学だから言うわけじゃないですが(笑)、女性のサラ・マラーリーが先日カンタベリー大主教になったのはやはり象徴的です。かたや米国で、キリスト教をアメリカ化しつつ、アメリカをキリスト教化するという一部の極端な福音派が強くなってくると、欧米のあいだの宗教的な断層も深まるでしょう。加藤さんの『福音派』はキリスト教史の転換点を捉えていたと、のちのち評価されるかもしれません。

 それとともに、もはや西洋の枠内だけでキリスト教を考えられる時代ではない。いずれ欧米とは違う場所から、新しいキリスト教の担い手が出てきても不思議ではないでしょう。無責任に言えば、アジアやアフリカが次なる宗教改革の震源地になるんじゃないだろうか。

加藤:いまのAIの状況は、極端に言えば、あらゆる情報や事象が偏在し、同時に私たちの内側にまで入り込んでくるような世界です。ある意味では、それは徹頭徹尾「聖霊論的」とも言えるかもしれません。もし新しいメディアが人間の脳活動をハイパー化したようなものになるのだとすれば、そこではすべてが「近すぎる」状態になります。だからこそ、どうやって「受肉」されたものに触れるのか、という問いが出てくる。キリストという存在は、神であり人間でもあるという矛盾を抱えていますが、キリスト教会はその矛盾を二千年にわたって考え続けてきた。その中心にあるのは、対象との距離感なんですね。

 モダニズム的なメディアに現れる「怪物」は遠すぎる。理解も接触も困難な他者、あるいは超越神のようなものです。それは人間の外部にあり続けることで他者性を保つ存在でした。反対に、AI的なメディアは近すぎる。あらゆるものが即座に内面化され、差異が消えてしまう。その中間にある、距離を保ちながらも切断しすぎない受肉的なあり方を、どう担保するのか。いままさに、その問いが再び開かれているのだと思います。

福嶋:神の捉え方そのものが、いまのIT化によってかなり平板になっている気がするんです。たとえば、イスラエル人のユヴァル・ノア・ハラリの議論では、神は「何でも知っている賢い存在」程度に矮小化されてしまっている。ハラリは表向きAIに警鐘を鳴らしているけど、神を知能の問題に還元しちゃうわけだから、むしろ今の情報社会にきわめて親和的で、だからこそベストセラーになるんです。なにせ今のイスラエルはユダヤ性の伝統もかなぐり捨てて、超近代的な軍事国家の道を邁進しているわけだから、ハラリはいかにもネタニヤフの時代にふさわしい「思想家」なんですよ。

 でも本来、神はそんな単純なものではない。だいたい神が知能の問題に還元されるんだったら、イエスが十字架にかけられる必要もないわけでしょう。ルターのいわゆる「十字架の神学」では、神は超然とした存在ではなく、むしろ身を低くして人間の苦しみを引き受けるものとして捉えられる。ハラリやシリコンバレーの企業家は、十字架を忘れて神の話をしているわけです。

 他方で、伝統的には「哲学者の神」という考え方もありますね。たとえば、17世紀のトマス・ホッブズにとっての神は「世界の第一原因」、つまり世界の最初のスイッチを押した存在です。要は、ホッブズの神はビッグバンみたいなもので、知能とか人格性とかとは関係がない。これもまた唯物論的には洗練された見解です。ハラリ的な神はそれとも違って、あまりに平板なんですよね。だからこそ、もう一度伝統的な哲学や社会思想に立ち返って、今のテクノロジー環境を捉え直す必要があると思います。

加藤:その整理はとても重要ですね。第一原因としての神は、近代的で、父なる神の権威を強調するモデルと言える。一方で、ハラリ的な神は、偏在し、どこにでもあり、知識の総体として現れる、いわば聖霊化した神です。ただ、哲学者のフォイエルバッハ的な視点に立てば、どちらの神も結局は人間の投影でもあるとも言えます。父であれ聖霊であれ、子であれ、その時代のメディア環境の中で形作られた人間像でもあるわけですから。

 その中でキリスト教が長く守ってきたのが「受肉」でした。権威的な父と、偏在する聖霊、そのどちらかに振り切れないよう、神であり人でもあるキリストを中心に据えてきた。もちろん、その決定にはニカイア公会議のような政治的な契機もありましたが、同時にそこには、内在と超越、近さと遠さの両方を担保し続ける人間的な必要があったのだと思います。どちらかに振れすぎれば、異端が生まれ、共同体が揺らぎ、秩序が崩れる。これは正統神学の擁護というより、人間の共同体そのものがそうした両面性を必要としている、ということではないでしょうか。

失われた「遠さ」と20世紀メディアの可能性

福嶋亮大

福嶋:その意味では、いまのAIも超人間的な知能というより、三宅陽一郎氏などが言うように、むしろ人間の知能だけをモデル化したせいで限界や欠陥があるんですね。AIが発達するほど、人間以外の知能を抑圧したことの弊害も大きくなる。『メディアが人間である』というタイトルは、この状況を踏まえつつ、そこからどう跳躍するのかという問題意識から出たものです。

 ここでメディア史を振り返りたいんですが、20世紀はかなり異常な時代だったと思うんです。その異常性の根源が映画です。マクルーハンが言うように、活字メディアから電子メディアへとすんなり移行するのなら話は単純ですが、映画という光学メディアはこの図式にうまく収まらない。

 そもそも16世紀のメディア革命以来、メディアはシスティーナ礼拝堂のような豪奢な巨大空間から、版画やパンフレットのように個人の手元へと移っていく流れがあった。当時の芸術家で置き換えると、ローマ教皇ユリウス二世にパワハラされながら物凄い天井画を描いたミケランジェロから、個人の思想を銅版画で伝えたデューラーへという流れです(この二人は同世代ですが)。要は「個人化」ですね。ところが映画はそれに逆行していて、人々を再びホールに集め、巨大な映像体験の中に閉じ込める。そういう意味で、映画ははからずも古い集団的な体験を復活させた、一種の事故のようなメディアだったわけです。

 テレビやインターネットのような電子メディアは、この脱線したメディア史をいわば正常なルートに復帰させた。映像は再びお茶の間へ、さらに個人の手元へと戻っていく。だから、映画が娯楽の頂点になった20世紀は、メディア史上の寄り道の時代だったとも言える。ただ、それは「偉大な寄り道」だったわけですね。

加藤:その身体性の強調はとても印象的でした。映画には、情報を一度止めて、身体を介在させるところがある。映画を観るとなぜ眠くなるのかといった話も書かれていましたが、福嶋さんの議論では、小説にもそうした側面があるように思えました。

福嶋:ただ、小説はまだ読者が自分でメディアをコントロールできるんですよね。映画はそうではなくて、一種の強制力がある。だから近代的な自己決定の原理からは大きく外れている。そこが異様なんです。この点で、僕がよく引き合いに出すのはベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』で、主人公の溥儀は紫禁城という巨大な空間に閉じ込められ、少年でありながら王にされてしまう。ベルトルッチにとって、それは、生まれたばかりなのに偶発的に「娯楽の王様」になってしまった映画そのもののアレゴリーです。溥儀は自己決定できない。同じように、映画にはもともと、既存のレールから人間を逸れさせる力があると思う。

 その一方で、小説をはじめとする活字メディアの価値を、もう一度考え直していいとも思うんです。マクルーハンが言うように、活字は本来、他者に反応する前に内面的に沈思黙考するのに向いたメディアなんですね。ルターとも関連の深いデューラーの《祈る手》のように、一人ひとりの内面を祈りへ向かわせる力が、小説にはある。小説にせよデューラーの版画にせよ、人間の心そのものを豊かなメディアへと変えていく装置だったと思うんです。

加藤:そこはよく分かります。ただ同時に、読書は孤立した個人の営みであるだけでなく、共同体的な行為でもあったはずです。教会での聖書朗読や説教、酒場やサロンなど共に読む場の存在ですね。つまり活字メディアにも「共に読む」という方向があった。その意味で、言語メディアの中にも受肉性や共同性の余地があるのではないか。福嶋さんの書籍では、最終的にセーレン・キェルケゴールの言う「単独者」へ向かっていくように見えますが、その手前には、単独者に寄り添う媒介としての人、物、場所があるのではないか。そこをどう考えるのか、非常に興味があります。

福嶋:たしかに個から共同体へという流れもありますね。それこそルターは、もともと音楽的素養があり、彼の作ったコラールは後にバッハによってカンタータへと展開されていく。そこには、個人の信仰が集団的な実践へ接続されていく流れがあると思います(逆に、新教でもカルヴァンは音楽には否定的でした)。マクルーハンも大きな見取り図としてはそちら側にいて、キリストの身体を分け合うというミサの経験が、エレクトロニクス・メディアによってグローバルな規模で再び可能になるだろう、と。つまり、活字メディアの限界を超えていくのが電子メディアだという発想です。

 ただ、今から振り返ると、そこで起きたのは必ずしも理想的な変化ではなかった。繰り返すと、活字メディアは「反応せずに沈思黙考する」のに適していたのが、今はかえって即時的な反応のためのメディアにすり替えられてしまったんですね。いわば逆の用途で使われている。その結果、活字メディアが持っていた本来の良さも失われてしまったように見えるんです。それは、マクルーハンが思い描いていた世界ではない。要するに、メディアがあまりにも人間に近くなりすぎたんですね。

加藤:その通りだと思います。近さが勝利してしまった時代において、いかに遠さの価値を再発明するか。そこが21世紀のテクノロジー批評の大きな課題になっている。近さ、没入、圧縮、反射性、即時性――そうしたものの反対側にあるものを、どう考えるのかということですよね。

 これまでは、近くないとよくないという倫理観が支配的だった気がします。人と近づくこと、共同体を作ること、それ自体が善とされてきた。もちろん、それは国民国家を作るうえでは重要だったし、均質性の中で「近い存在」であることに意味があった。でも今は、逆に近づきすぎてしまっている。だからこそ、近くなくてもよいという倫理、あるいは絶妙な距離感を引き受ける倫理が必要になっているのではないか。福嶋さんが今後「宗教とメディア」について書かれるとしたら、まさにそこへ向かわれるのではないかという気がします。

福嶋:『メディアが人間である』でも書いたんですが、20世紀の複製メディアは、アウラの壊れ方がちょうどよかったんです。レコードや映画、昔の写真のようなメディアでは、たしかにアウラは失われている。けれども、完全には消えていない。こちらで編集できる自由がありながら、それでもなお、どこかに不可侵な要素というか、文字通りの「有難さ」が残っていた。その絶妙な距離感があったからこそ、優れたアートを作れたのではないか。

 ところが、スマホのような現代のメディアになると、アウラは徹底的に壊れてしまう。何をどう操作しても自由で、その果てにAIが現れ、統計的な計算によってデータをいくらでも生産できる世界になっていく。だとすれば、21世紀のメディアの中から、20世紀メディアの良質の部分をあらためて取り出していく必要がある。それが僕の言う「遠さの発明」や「宗教改革」にもつながってくるんだと思います。

 加藤さんの刺激的な言葉を借りると、映画には、ある特殊な「受肉」の形があったのかもしれません。ベルトルッチだって、歴史や政治の力にさらされた溥儀≒シネマの身体を捉えようとしたわけでしょう。それは確かに「遠さ」のヒントになる気がしてきました。

“精神なき世界”で宗教は何を担うのか

加藤喜之

加藤:やがて到来するものを待望するという点において、終末を待ち望む福音派的というか、黙示録を記したヨハネ的な響きもありますね。

福嶋:そうかもしれません。終末論は歴史上何度も繰り返されているわけですが、考えてみるとルターも終末論に傾いていたわけですね。ふつう「改革者」と聞くと、新しい未来を人間の力で切り開く人をイメージしがちですが、ルターはむしろ、もうすぐ世界の終わりが来るのではないかという切迫感の中で生きていた。世界そのものが終わり、別のステージへ移行することを予感していた人間が、画期的な宗教改革者になる。その点は面白いと思います。

 16世紀初頭のドイツでは終末論のブームがあって、さっき言ったデューラーにも『ヨハネ黙示録』の木版画がある。デューラーは芸術史上でも傑出した「思想家」だと思いますが、特に興味深いのは《メランコリア》のような作品です。中央の人物は当時の最先端の科学器具に囲まれているのに、どこか憂鬱そうにしながら、思索に集中している。ちょっと飛躍すると、それは21世紀の人間の肖像のように感じられる。われわれもZoomやAIでほとんど魔術のようなことが可能になったのに、なぜかメランコリーに取りつかれて、ネガティブな話ばかりしているわけですから。でも同時に、その中で何か新しいものが来るのではないかという予感も蓄積している。そこがいまの時代の面白さでもあるんでしょうね。

加藤:16世紀で言えば、そうした感覚を実際に統合していったのは、デジデリウス・エラスムスのような人文主義者ではなく、ルターのような人物でした。エラスムスは文献学や歴史学を通じて改革の条件を整えたけれど、自身は革命家にはなれなかった。ルターはその成果に依拠しながら、実際に体制を動かしていった。この関係は、現代の学者や人文学者にも通じる気がします。私たちは何かを語り、準備しながら、最終的にはそれを現実の形にする誰かを待っているのかもしれない。

福嶋:鋭いご指摘です。今日は文学部らしく(笑)古い話題をいろいろ取り上げていますが、世間的な尺度で言うと、今の日本では歴史的な語りが少し色褪せているんだと思うんですね。たとえば戦後80年を迎えても、かつてのように歴史修正主義が大きな争点になるわけではない。むしろ過去の解釈より、未来への不安のほうが強くなっている。これは福音派的な感覚にも通じていて、歴史が累積して現在があるというより、未来に決定的な出来事が起こり、そこですべてがリセットされる、という幻想が人々を動かしているようにも見えるんです。だからこそ、「もう一刻の猶予もない」と言っていたルターのような人物が、いま改めて面白く見えてくる。

加藤:その話は、トランプともつながりますよね。福音派とも結びついているし、何よりメディアと深く関係している。福嶋さんの本にあった「戦争がメディアを宣伝し、メディアが戦争を宣伝する」というジャン・ボードリヤールの示したような構図が、いままさにトランプのもとで再演されているように思えます。彼は実行力そのもの以上に、スペクタクルを作り出し、自らの力を見せつけることに長けている。国内で起きる暴力的な出来事さえも、その現場ごとメディア化され、拡散され、威嚇の装置になっていく。そこには、軍事力や帝国主義といった言葉だけでは言い尽くせない、新しい独裁性の形が見えている気がします。

福嶋:トランプはもともと悪名高い不動産屋ですが、物理的な土地だけでなく記号の世界でも“地上げ”をしている。でたらめな記号を次々ばらまき、その量で圧倒してしまう。もはや誰もすべてを追跡できないほどの物量で、記号空間そのものを乗っ取っていく。誰かがトランプを「記号論的サラダ」と呼んでいましたが、まさにそんな感じですね。しかもそれは突然現れたものではなく、ある意味では1950年代のマッカーシズムの再演でもある。そもそも、トランプの師匠のロイ・コーンは、ジョセフ・マッカーシーの側近だった。でたらめな記号を大量に投げ込んでカオスを作り、それによって共産主義へのヒステリーを煽るマッカーシーの手法が、半世紀以上を経て別の形で戻ってきたわけです。

加藤:しかも今は、それが物理的な権力の行使だけではなく、メディア空間の中で増幅されている。特にSNSですよね。リールやTikTokのような短い動画形式を通じて、権威主義そのものがメディア化されている。実際に起きている暴力や拘束だけでなく、それが常に撮影され、配信され、リポストされることでアテンションと意味が増幅されていく。重要なのは、出来事そのものだけでなく、それが「見せられること」なんです。支配を見せつけること、それ自体が権力になっている。その先にあるのが、現実の拡張主義や武力衝突なのか、あるいはパランティアのような監視システムを通じたセキュリティのメディア化なのかはまだ分かりませんが、いずれにせよ、実際の暴力と情報の収奪が接続された新しい統治の形が見え始めているように思います。

福嶋:おっしゃるとおりで、戦後アメリカが築いてきた秩序そのものを、いまアメリカ自身が壊している。三牧聖子さん流に言えば、戦後が「強制終了」されたということでしょう。本来なら国際法のような枠組みが重要だったはずなのに、いまは「そんなきれいごとを言っていても仕方がない」ということで、露骨な力の政治へ回帰している。ただ、そこで行使されている力は、昔ながらのパワーとも少し違う。メディア化された力には新しい側面があると思うんです。それは、ニューロンと記号が結びついた力です。

 だからこそ、逆説的ですが宗教が重要になるのではないかとも思うんですよね。マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と言いましたが、その前段で実は「宗教は精神なき世界の精神である」とも言っている。つまり、宗教とは単なる麻薬ではなく、精神を失った世界において、なお精神的なものを担保する働きでもあるわけです。今のAIやシリコンバレー的な価値観の中にも、たしかに神学的な要素は強くありますが、それはむしろ「精神なき世界」を加速させるタイプの宗教なんですよね。そうではなくて、精神が失われた世界にもう一度精神を呼び戻すような「来るべき宗教改革」を想像できないか。その具体的な姿形はまだわかりませんが、加藤さんのおっしゃる「受肉性」や僕の言う「遠さの発明」など、そのあたりが鍵になる気はしています。

加藤:その話は、伝道者の内村鑑三が提唱した無教会主義のようなものにもつながっていきますよね。教会制度のような強い組織ではなくても、集会に行き、共に読み、語り、解説を聞くという読書の共同体がある。無教会は、すべてが単にメディア化されてしまうのではない、別の媒介を担保しようとしていたとも言えるのかもしれません。

福嶋:そうなんです。内村鑑三もある時期に終末論に強く肩入れするでしょう。聖書を信じるとはキリストの再臨を信じることだ、とはっきり断言している。それを受け継いだのが、弟子の政治学者の南原繁です。南原の場合は、キリスト教の終末思想をイマヌエル・カントの平和論に置き換えた。

 これは日本の戦後を考えるときにも、きわめて本質的な問題です。考えてみると、完全な平和主義とは、それ以上の先がない「歴史の終わり」でもあるわけです。それを日本で実現しなければならない、というキリスト教的な発想が、戦後民主主義の知的なルーツの一つになっている。だから、戦後民主主義=平和主義には終末論の発想、つまり「これが人類の最終解答だ」という感覚が入っているんですよね。そういう意味では、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を、内村や南原はもっと早い段階で先取りしていたとも言えると思います。

加藤:ただ、いまのアメリカを見ると、むしろパトリック・デニーンが『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(原書房、2019年)で提唱したように、歴史の終わりをもたらしたはずのリベラリズムそのものが、機能不全を起こしているようにも見えます。この機能不全については、フクヤマのように、新自由主義的な経済的リベラリズムとウォーク思想など文化的リベラリズムといった、本来のリベラリズムが歪んだ形への反動だと捉える立場もありますし、デニーンのように、リベラリズムそのものに問題があると考える立場もあります。

 デニーンは、リベラリズムを乗り越えた後に、伝統的な家族観や宗教観を重んじる秩序を再建しようとしているわけですが、その過程において、ある種の「破壊の手段」としてトランプを位置付けているようにも見える。つまり、終わったはずの歴史が、また動き出しているということですよね。日本もアメリカに強く依存している以上、この変動から自由ではいられない。

身体を介した対話と、“受肉的な共同体”のゆくえ

福嶋:僕自身は、リベラルでも保守でもなく、あえて言えばただの個人主義なんです。しかし、平凡な個人主義が実はいちばん難しい。特にトランプの象徴するニューロンの政治は、それを許さない風土を作り出していると思う。

 トランプは、ある意味でウイルスみたいな存在なんですよ。一回あれに全部壊してもらって、その後に自分の好きな世界を作りたいと思っている人が多い。でも、その発想自体が罠でもある。トランプを利用しているつもりが、いつの間にか手段が目的化し、圧倒的なニヒリズムと自己中心性だけが残ってしまう。

加藤:だからこそ伺いたかったんです。個人主義を掲げながらも、福嶋さんは対話や身体を介したコミュニケーションを重視しているように見える。その感覚を、これからどう実装し、実践していくのか。コロナ以降、トランプ以降のメディア環境の中で、その構想がどう具体化していくのかを、ぜひ聞いてみたいと思いました。

福嶋:個人主義というのは、エゴイズムとは違うんです。好き勝手に生きることではなく、まず人間どうしの理解しがたさや不透明性を引き受けることなんですよね。そしてその前提には、ある種の寂しさがある。保守系の論者は、リベラリズムを突き詰めると寂しい個人ばかりになる、それでいいのかと問うわけですが、僕はむしろ、その寂しさをある程度ポジティブに受け入れられるような成熟した個人主義のほうがいいんじゃないかと思うんです。

 その意味では、いまのデジタル・メディアをこのまま先鋭化させていっても、あまり出口はない。だからこそ、メディアの捉え方そのものをもっと広げる必要があると思っています。20世紀の映画も面白いし、16世紀のルターやデューラーも面白い。そういう長い射程の中で考えることが、結果的には成熟した個人主義の土台になるんじゃないか、と。

加藤:そのとき、他者はどう現れてくるのでしょうか。

福嶋:僕は、同じ時間的水準にいる他者って、どうもそれほど他者性が強くない気がしてしまうんですよね。だから、時差のある他者を捉えたい、というモチベーションがある。それは先人や未来人だけではないです。そもそも、同じ時代や空間に生きていても、本当は個々人の人生はおのおの個別の時間軸を生きているはずなんですよ。自分の子どもを見ていると、特にそれを強く感じます。時間的なレベルでの「遠さ」や「隔たり」を忘れると、他者性そのものが失われるのではないか、と。

加藤:その危険性は確かにあると思います。でも一方で、近いとか遠いとかいうことには、やっぱり身体性が関わっている気がするんです。いまこの場でも、すごく楽しく話しているけれど、どこかでは分かり合えていない部分がある。その、理解していると同時に理解していないという同時性が、身体を介在させて同じ場所を共有していることで起きている気がするんですよね。

福嶋:対話というのは、完全に一致することが大事なんじゃなくて、どこが違うのかが分かればそれでいい、という柄谷行人ふうの考え方がある。僕も基本的にはそのスタンスです。

 それとちょっと関わりますが、利他性という言葉が最近よく使われる。でも、僕はあまりそれを大げさに捉えるべきではないと思うんですよ。そもそも言葉を使ってコミュニケーションしている時点で、すでに利他性は含まれている。もし人間がもっと競争的な生き物として進化していたら、そもそも対話なんて成立しないし、言葉ももっと貧しくなっていたはずです。だから、おっしゃるように身体を介在させて言葉を使っているだけでも、すでにもう十分に他者に向かっている。必要以上に「仲良くしなければいけない」と思わなくてもいいんじゃないか。

加藤:そして対話には、同時に起こるからこその楽しさがある。私はジャズもやるので、その感覚はすごく分かるんです。セッションって、一人で練習して、偉大なミュージシャンたちの旋律を耳コピして、いうなればジャズの語彙を蓄えておく時間がまず必要なんですよね。でも実際のセッションでは、それぞれ違う楽器が違う言葉を発しながら、相互に聴き合い、同時的に何かが立ち上がってくる。そこには身体的な享楽のようなものがある。その場限りの楽しさは、AIにはできないし、一人の怪物的な存在をただ見つめているだけでも生まれない。対話や鼎談には、そういう一回性があると思うんです。

福嶋:その話をうかがっていると、僕はやっぱり、人間と人間の関係というより、人間と神の関係に近いことを考えたいのかもしれない、と思いますね。人間同士の倫理や道徳の問題とは少し違うテーマを、『メディアが人間である』でも取り上げたかった。そういう意味では、あえて言えば宗教に近いんでしょうね。

加藤:そこがすごく面白いんです。キルケゴールの議論ともつながりますし、福嶋さんの本の最後に出てくる「あなたはどこにいるのか」という問いもまさにそうです。あれは創世記で、罪を犯したアダムに神が投げかける問いでもある。非常に哲学的であると同時に、神学的な問いでもあるんです。福嶋さんは、伝統的なキリスト教そのものではないにせよ、単独者としてその問いに応えようとしている。その姿勢がとても興味深い。

福嶋:ただ、言われてみると、僕はあまり倫理性の強い人間ではないのかもしれません(笑)。和辻哲郎みたいに、人と人のあいだの「人倫」に関心を置くタイプの哲学には、そんなに惹かれないんです。

加藤:私は逆に、セッションのほうが好きなんでしょうね。身体を介した対話の中で、その場限りのものが生まれることに惹かれている。神学を一通りやってはきましたが、そこに惹かれているところがあるんです。

福嶋:もちろんセッションは大事です。そういうお互いに高めあってゆくような楽しい共同性がどこかにないと、生きている実感も湧かない。僕も若い頃にもっとジャズに触れておけばよかった(笑)。

 他方で、こういうことも思うんですよ。カール・シュミットの友敵理論はわかりやすいから、みんな引用するでしょう。ただ、だいたい誰もが敵のほうに注目するけれど、僕はむしろ友のほうが危うい概念だと思うんです。友ってものすごく曖昧で、この人は友だと思っていても、本当にそうなのかは分からない。家族だって同じで、どこまでを家族と呼ぶのかはかなり曖昧です。ほとんど会ったことのない親族は、果たして「友」なのか。いまのSNSでは敵を作ってまとまるのが一つのパターンになっているけれど、その反面、友とは何かという検証はおざなりになっている気がするんですよね。

加藤:それはすごく面白いです。家族や味方というものも、血縁や思想だけで単純に決まるわけではない。長く時間を共に過ごしたことや、ミッションを共有したこと、身体的な近接性など、いろいろな要素が重なって形成される。だから共同体というものも、自然に与えられるのではなく、かなり複雑に作られていくんだと思います。

福嶋:そうなんです。友を維持するには、ある意味で人工的な装置が必要なんでしょう。これは僕の独断ですが、人間が神を求めるのも、お互いに完全には分かり合えないからなんじゃないかと思うんです。もし人間同士の関係がもっと透明で、何を考えているのかがパッと分かる生き物だったら、神は出てこなかったかもしれない。結局、人間は個体としての独立性が高いんですよ。身体的に近接していても、言葉という媒体は使い方が難しいし、コミュニケーションのエラーが頻発する。だからこそ、人間は水平的な関係だけでは収まらず、どこかで垂直的なものを求めてしまうのではないか。宗教の問題は、この困難をどう受け止めるかに関わっていると思います。

■書籍情報
『メディアが人間である 21世紀のテクノロジーと実存』
著者:福嶋亮大
発売日:10月3日(金)
価格:3,300円(税込)
判型:ハードカバー/四六判
頁数:316頁
ISBN:978-4-909852-63-2
出版社:株式会社blueprint

『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』
著者:加藤喜之
価格:1,320円
発売日:2025年9月19日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる