文筆家・オードリー若林とラッパー・BOSSの共振ーー初小説『青天』にみなぎる「不良」の魂

オードリー若林の初小説『青天』を読む

 オードリー・若林正恭の初小説『青天』が、発売から2週間の時点で累計部数28万部を突破する大ヒットとなっている。これまで刊行した3冊のエッセイ本がいずれも高い評価を受け、すでに文筆家としての名声も確立している若林。そんな彼が新しく小説に挑戦、しかも題材は自身の半生とオーバーラップするかのような「高校アメフト部の青春」とあって、この売れ行きも当然のことだろう。

 そんな『青天』を読んでみた。せっかくなので、『青天』を読むまえには、それぞれ初読時に感銘を受けた若林のエッセイ本3冊も再読した。

 結論から言おう。『青天』はどこまでもまっすぐにひねくれていて、まっすぐに胸の熱くなる青春小説だった。そして、これまでの歩みとあわせた文筆家・若林正恭の姿が、日本一ストイックで器のデカいラッパーのひとりであるTHA BLUE HERBのBOSSにダブって見えた。

『青天』の主人公アリは「不良」である

 まず、『青天』はどんな話か。公式に出ているあらすじはこうだ。

総大三高の「アリ」こと中村昴が所属するアメフト部は、万年2回戦どまり。相手校の練習を隠し撮りして迎えた高3の引退大会では、強豪・遼西学園に打ち破れた。引退後、みなが受験に向かうなか、勉強にも気持ちが入らず、不良になる覚悟もないまま宙ぶらりんの日々を過ごす。自分自身の不甲斐なさにもがき続けるなかで、アリは再びアメフトと向き合う決意を固める。(【青天/アオテン】……アメリカンフットボール用語で、試合中に仰向けに倒されること。)

 ここにもあるとおり、主人公のアリ(おそらく若林の学生時代のあだ名「ジャリ」から来ている)は真面目に勉強に打ち込むことができないし、悪いことをして遊ぶ不良にもなりかけたが結局は馴染めない。なぜなら、アリがどこまでも「真面目」で「不良」だからだ。

 ここで言うカギカッコつきの「不良」は、小説家の西加奈子がラジオで若林としゃべったときに使っていた概念である。西加奈子によれば、若林は正真正銘の「不良」だ。西の言う「不良」とは、なんか目つきが悪くて不貞腐れているやつのことを指す。当然、勉強もできない。この時点では、悪いことをして遊んでいるカギカッコなしの不良と同じにも見える。

 違うのはここからだ。西は中学生のとき、ある目つきの悪い同級生男子に数学の問題を教えてくれと頼まれたことがあったらしい。三角形のみっつの内角のうちふたつの角が何度がわかっていて、残りひとつが何度かを答えろという問題である。もちろん、三角形の内角の和=180度から、ふたつの角の数字を引けば簡単に答えは出る。こんな問題、西からすれば「なんでわからんへんねやろ?」である。しかし、その同級生は全然アホではなかった。彼は西に、「なんで180度なん?」と尋ねたというのだ。ここで不良は「不良」になる。

 ふつうは「三角形の内角の和は180度です」と先生に教わったら、「そういうものか」と思って問題を解く。しかし、これは多くの場合「とりあえず決められたルール」として与えられるに過ぎず、その根拠を教えてもらうことはほぼない。「不良」とは、とりあえず与えられただけのルールには納得できない、それゆえにひねくれて目つきが悪くなってしまう、どこまでもまっすぐなやつのことなのである。

 つい、「不良」の説明が長くなってしまった。なにはともあれ、『青天』の主人公アリは正真正銘の「不良」である。「不良」であるがゆえに、学校の勉強にも身が入らないし、カギカッコなしの不良の世界にも馴染めない。アリは不良たちを見てこう思う。「こいつらには校則以上に校則があって、髪型、髪色、眉毛の形、服装、話し方から遊び方まで決まりがある」。そして、不良の口から出た「俺のチームに対する絆ナメてんのか?」という言葉に思わず爆笑してしまい、ボコボコにされる。

 ここで「不良」の繊細なネガティブスイッチを全開にすると、不朽の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー著)になる。『青天』のアリもどこか『ライ麦畑』の主人公ホールデンを思わせるところがあるが、最終的にそれとは別の道をとる。ホールデンがこの世のほとんどすべてを否定するのとは違い(とはいえ「ほとんど」が大事なのだが)、アリはアメフトに邁進しなおすのである。なぜなら、アメフトで相手とぶつかり合う動物的で本能的な瞬間には嘘がないからだ。

 もちろんアメフトにだって謎に決められた「ルール」はあるし(煎じ詰めればすべてのスポーツのルールは謎である)、それ以前に言うまでもなくチームというのは「社会」である。一度は引退したアリの復帰は新チームの「社会」に軋轢も生むが、彼はそこで起こる問題にも文字どおり正面からぶつかっていく。

 そして、最終的にアリは「しょせん万年2回戦どまりの弱小校では真の強豪には勝てっこない」という動かしようのない運命にも、正面からぶつかっていくことになる。正面からぶつかっても勝ち目がないものにぶつかることになんの意味があるのか。それを正面から問うのが『青天』の真骨頂だ。そこから見えるものはいったいなんなのか――。あとはぜひ本編を読んでみてほしい。

文筆家・若林の一貫した「不良」性

 小説『青天』の紹介はいったんここまでで終わりである。ここからは、そんな『青天』がこれまでの若林の文筆活動とどうつながっているのかを考えてみたい。

 さきほど、「不良」とは「とりあえず与えられただけのルールには納得できないやつ」だと書いた。若林がこれまでに書いてきたエッセイは、徹底的に「不良」のそれなのだ。

 まず、初のエッセイ本『社会人大学人見知り学部卒業見込』(角川文庫)。これは、30歳でお笑い芸人としてブレークしてテレビに出るようになった若林が、テレビ制作の現場という「社会」に参加した実感を書きつづったものだ。冒頭の文章が「社会人一年生」というタイトルになっていることからもわかるとおり、社会で起きるたくさんのことに若林がうまく馴染めず戸惑う様子が描かれる。

 それがもっとも端的に現れているのは、若林がある番組の企画会議に参加するようになった場面だ。印象的なのですこし長めに引用しよう。

 会議が始まってある法則に気付いた。
 アイデアを出して「悪くはないんだけど……」「わかるんだけど……」といった具合に、「だけど……」がついたらそれは「ボツ」のサインだ。みんな、大人だから直接的な表現は使わない。それにいつ気付いたかというと、作家さんが出したアイデアに対して「それだと共感されないんじゃないですか?」とぼくが言った瞬間、スタッフさんに「若林くん、もうちょっと言葉選ぼっか」と言われ、みんなに笑われてしまったときだ。

 会議に参加する面々のプライドに配慮できていなかったことを恥じた若林は、発言が極端に減ってしまう。しかし、言えずに終わった自分のアイデアの良し悪しが気になり、のちほどそれを確かめるために電話で同世代の作家に意見を求める。そこで若林は作家から「こういう電話は好ましくなく、できるだけ会議で言った方がいい。派閥を生んじゃうことがよくあるから」とアドバイスを受け、さらに反省することになる。

 大人の世界は難しい。もちろんここで描かれているルールとマナーは、「とりあえず決められたルール」と簡単に切って捨てられるようなものではない。しかしいずれにせよ、若林はそれにいったんぶつかることでしか飲み込めない「不良」なのだ。

 斎藤茂太賞も受賞した次作の旅行エッセイ『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(文春文庫)でも、若林はまだ「不良」だ。戸惑いながらもテレビの世界で成功を収めた若林は、それでもまだ社会への違和感を抱きつづけている。いや、違和感はむしろ拡大しているとも言える。テレビ制作の現場に徐々に慣れてきた若林の違和感は、もっと大きな「社会全体」に向けられることになるからだ。

 若林はこう書いている。「勝っても負けても居心地が悪い。/いつもどこでも白々しい。 /持ち上げてくるくせに、どこかで足を踏み外すのを待っていそうな目。/祝福しているようで、おもしろくなさげな目。/笑っているようで、目が舌打ちしている」。若林は売れない若手芸人時代に「社会人」をやっている周囲の友人に引け目を感じていたのだが、他方で売れてからの周りの反応にも馴染めない。結局、どっちにしろだれかが勝ってだれかが負けて、どっちにしろネガティブな感情からは逃げられないじゃないかと。

 その原因はどこにあるのか。どこまでも競争を駆り立ててくる資本主義社会(若林は「新自由主義」という言葉も使っている)にあるのではないか――。ということで、彼は社会主義国のキューバに行き、モンゴルの草原で馬に乗り、アイスランドの年越し花火を見物する。そして、旅に出るすこし前に亡くなってしまった彼の父と、キューバの街で「再会」を果たすことになる。若林が小学生のとき、彼の父は大人ながら他所の子どもが公園でいじめられているのを見て躊躇なく助け、それ以来彼にとってヒーローでありつづけたという。この父にも「不良」の匂いがするが、いずれにせよ若林は、「競争の原理の中で、絶対的な味方」でいつづけてくれる家族の存在に回帰するのである。

 3冊目は、元の連載からいえば『社会人大学』のほうの続編にあたる『ナナメの夕暮れ』(文春文庫)である。ここで若林は、それまでに確立された「若林といえば人見知りの中二病キャラね」という世間からの見方にすら染まらない。「ぼくは社会に6年住んで今や立派な住人となった」と若林は書く。「ラジオで「人見知りが治った」と言ったら、ファンレターに「人見知りの若林さんを信じてたのに残念です」と書いてあった。もちろん完治したわけではないが、人見知りのままでいようと努力する人間などいない。もし、言い訳として必要だという人は一生人見知りを大事に抱えていればいい」。

 若林は変化を恐れない。若いころ「ゴルフに興ずるおっさんはクソだ」と決めつけていたのに、先輩に誘われて興味を持ちゴルフを始める。シリーズの前著『社会人大学』で書いた、「スタバの注文のとき「グランデ」というのがなにか気取ってるようで恥ずかしい」という話にも、『ナナメの夕暮れ』ではセルフツッコミを入れる。

 こういう気持ちはどこから来るかというと、まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。
 (中略)
 昔から言っているのだが、他人の目を気にする人は“おとなしくて奥手な人”などでは絶対にない。心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。
 その筆頭が、何を隠そう私である。

 めっちゃわかる。この感性を「不良」と言わずしてなんと言おうか。そして若林は、そんな「ナナメ」を殺して世界を肯定する仕方を模索する。

 ここで話を『青天』に戻そう。もちろん小説なので、『青天』のアリはそのまますべてイコール若林なわけではない(若林自身もラジオでそう語っている)。しかし、これまでエッセイで自らの思いを正直につづってきた若林と、『青天』の主人公アリは、「不良」である点でまっすぐ重なるのである。そして、アリと若林の「不良」性をつなぐ重要なアイテムに、日本語ラップがある。

『青天』の日本語ラップ、そしてTHA BLUE HERB

 『青天』のアリは、いろいろな場面で日本語ラップを聞く。アーティスト名を列挙すると、雷、BUDDHA BRAND、THA BLUE HERB、TOKYO No.1 SOUL SET、SOUL SCREAM、ライムスター、Zeebra、OZROSAURUS、スチャダラパー、餓鬼レンジャー。簡単にいえば、若林自身が若かりし日々に聞き込んだと思われる、90年代に日本語ラップシーンが華々しくぶち上がったころに活躍した(あるいはいまも活躍をつづけている)人たちで、いまやレジェンドと呼ばれる面々である(余談だが、ここでかかる曲のなかには、厳密には若林自身の高校時代にはまだリリースされておらず、むしろ大学時代以降に聞き込んだと思われるものも含まれている。繰り返しになるがアリと若林は必ずしもイコールではない)。

 なかでもアリは大事な試合の前になると、気合を入れるためにTHA BLUE HERBのファーストアルバム『STILLING,STILL DREAMING』の曲を聞く。日本語ラップ史に燦然と輝く不朽の名盤である。たとえばアリは、「AME NI MO MAKEZ」の“サードアイ見ひらき 鉄壁の知識のすきまの小窓からカウンターをねらう”や、「BOSSIZM」の“ガス切れのライター 親指で毎晩こすり上げとぎ上げたペン先は刃”といったリリックをイヤホンで聞きながら、ウォーミングアップしたり気持ちを高めたりするのである(そういえばスノーボーダーの平野歩夢も、22年の北京冬季オリンピックで逆転の金メダルを決める滑走の直前、THA BLUE HERBの「THE BEST IS YET TO COME」を聞いていたらしい)。

 ご存じの方には釈迦に説法だが、THA BLUE HERBはいまも昔も札幌で活動を続けるグループだ。このファーストは、90年代当時日本語ラップシーン唯一の中心地であった東京に対して、“(札幌の俺たちを)黙殺しようと思っても不可能だ/うんざりするくらい目の前飛び回ってやる”(「孤憤」)と宣戦布告し、アルバム全編をとおしてその思いをひたすらラップしたアルバムである。

 ただし、そこで歌われていることは時代と場所を問わずなにかと戦うひとすべてに届く普遍的な事柄だ。曲調は一貫して暗くシリアスだが、底では力強いビートが刻まれ続ける。THA BLUE HERBのラッパー・BOSSのリリックが、強豪校に挑むアリの気持ちを代弁するかのように響く情景が浮かぶ。さらに言えば、小説のクライマックスシーンでアリの脳内で再生され、小説中もっともリリックが長く引用される餓鬼レンジャー「火ノ粉ヲ散ラス昇龍」も、“心拍数 爆発上昇 研ぎ澄ます感覚の包丁”、“快感の表情が証拠 3つめの目も開く瞳孔”といったところは、試合前に聞いていたBOSSのリリックとどこか響き合う、というかそのアッパーバージョンみたいなところがある。

 なぜ『青天』のレビューでわざわざBOSSの話をずっとしているのか。それは私が『青天』が出るまえに若林の3冊のエッセイを読み返していたとき、「このエッセイの変遷ってなんとなくBOSSっぽいな」と思っていたからである。そして『青天』を読んでみると、THA BLUE HERBの曲が重要なところで、しかも明らかに意図を込めて使われており、我が意を得たりと勝手に嬉しくなったのだ。

 ごく簡単にだけ、ふたりの歩みを重ねながら振り返らせてほしい。『青天』でかかっているTHA BLUE HERBのファースト『STILLING,STILL DREAMING』でのBOSSは、ここまで見てきたとおり尖りまくっている。これは若林の1冊目『社会人大学』や、あるいはさらにその前、オードリーが世に出るきっかけになった渾身の「ズレ漫才」誕生前夜を思わせる。そこから、若林もBOSSも旅に出る。たとえばTHA BLUE HERBのセカンド『Sell Our Soul』に入っている「路上」は、BOSSがバックパッカーとしてネパールに旅行したからこそ生まれた曲だ。そして、セカンドの1年後にリリースされた「未来は俺等の手の中」で、最後に彼も家族や仲間に回帰する(“それより遂にはお前が親か/幸せってヤツがそこにあったとはな/おそらくそれに勝るものはない”)。さらに、ふたりはいずれも「(ナナメの)夕暮れ」を迎えつつも活動を続け広げていくことを肯定する。BOSSはサード『LIFE STORY』の「この夜だけは」で、“生活は繰り返すだけでなく/発展を目指すから朝はめでたく/めまぐるしく変化する善悪/揺れながら 心の平安を願う”とラップする。もちろんいまもBOSSは最高のラップをしつづけている。

 ふたりが重なるのはその変遷だけではない。最も大事なのは、若林もBOSSも、若くて尖っていたころから同志へはエールを送り続けていたことかもしれない。BOSSは、東京に向かって“黙殺しようと思っても不可能だ”と挑発する「孤憤」のなかでも、他方で“簡単に左右されない主義主張をつくってそれを維持してる奴等”にはピースを送っている。納得がいかないルールには歯向かうが、尊敬できる魂を持つやつには素直にエールを送るのが「不良」なのである。

 じつは若林の『社会人大学』も、最も印象的なのは自身が抱いた違和感を語ったところではない。ハガキ職人(ラジオのおたよりコーナー常連投稿者)であるTについて書かれた3つの章がこの本の真骨頂だ。そして、そこには『青天』にもつながるテーマがある。

 Tは、毎回クオリティの高い笑えるメールをとてつもない量で送ってくるすごいアマチュアである。若林はその存在が気になり、ラジオで「プロになればいいのに」と呼びかける。すると、Tからは一言、「人間関係不得意」と返ってくる。この返信に彼の人間関係不得意さが凝縮されているが、それでさらにTのことが気になった若林は、彼をライブに招待して声をかける。さらには、自身のラジオ現場やライブの打ち合わせに参加させて構成作家見習いをさせる。社会に馴染めないが笑いに対しては信念のある「不良」のTに、若林は手を差し伸べるのである。

 しかしTは、アイデアは豊富にあるものの、会議をはじめとして仕事場でのコミュニケーションがまったくうまくできずに挫折してしまう。Tは、「僕はただのお笑い好きでした。いろんなことを我慢して好きなことをやろうとしている皆さんほどお笑いを愛せていませんでした」という言葉を残して地元に帰ってしまうのだ。

 本のなかでは、その後のTがどうなったのかはわからない(気になる方は「ツチヤタカユキ」で検索してみてほしい)。ここではあくまで仮定として、お笑いにしか関心のなかった彼が、挫折のあと再び構成作家を目指すが箸にも棒にもかからず、人生になんの安らぎも見いだせないまま死んでしまったとしよう。その場合、彼の人生は意味のない不幸なものだったことになるのだろうか。

 Tの挫折が問いかけるものは、『青天』のアリが最終的に直面する「動かしようのない運命に抗うことに意味はあるのか」という哲学的で実存主義的な疑問と重なる。アリは「不良」なので、「相手が強豪校でも諦めずに戦うことにこそ意味がある」といった安っぽい綺麗事には満足しない。そんなアリが最後にたどり着くのは、いったいどんなところなのか。アリが最後に見るものはなんなのか。ここから先は、やはり『青天』という小説そのものにぶち当たってもらうしかない。

 クライマックスよりずっと前、中盤のある場面で、アリは心のなかでチームメイトたちにこう語りかけている。「本気でぶち当たらないと自分がどんな人間かわからない。お前らだってそうだろ?」

■書誌情報
『青天』
著者:若林正恭
価格:1,980円(税込)
発売日:2026年2月20日
出版社:文藝春秋

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