アニメーター・金山明博が語る手塚治虫の素顔 新人相手にも意見を求める飽くなき向上心エピソード
どんなに忙しくても最善を尽くすのが手塚流
ちなみに、手塚はどんなに忙しくてもいくつも漫画のアイディアを考え、たとえ締切ギリギリであっても原稿の出来について周囲に意見を求めることで知られた。そんな手塚の性格に振り回される人々のエピソードは、『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(宮崎克/原作、吉本浩二/作画、秋田書店/刊)に多数収録されているので、気になった人は手に取ってほしい。
この本を読むと、手塚は、編集者が新人であっても対等に意見を求めていたことがわかる。そして、新人の漫画家やアニメーターでも実力のある人のことは強く意識し、ライバル視するケースが少なくなかった。手塚が1989年に60歳で亡くなるまで漫画を描き続けることができたのは、こういった執筆姿勢を一生涯貫いたためなのかもしれない。
さて、先ほどの金山の話には続きがある。金山はこうつづっている。
この日、後輩のA君の動画があまりにも下手で、(僕が)12回もリテークを出したためA君が怒って喧嘩になりました。後ろでエッセーを書いていた手塚先生は僕らの喧嘩を止めるでもなく、どこかに出かけていきました。しばらくして先生が戻ってきたとき、手にいっぱい駄菓子を抱えていました。
そして先生は、僕らに向かって『どうですか?機嫌は治りましたか?』と言いました。A君と僕は、先生からいただいた駄菓子を手に戸惑ってしまいました。
手塚は若いアニメーターたちに対して、気遣いを忘れることがなかった。手塚の優しさが感じられる、心温まるエピソードである。ちなみに、金山によれば、一緒にアニメーターの仕事をしていたA君はとても気持ちの優しい青年で、普段はとても仲が良かったそうだ。そして、それから数年後、A君は結婚式の10日前に突然心臓病で亡くなってしまったそうである。




















