藤田直哉 × 渡邉大輔が語り合う、宮﨑駿のアニミズムと戦後日本の大衆文化「ジブリは戦後日本が持ち得た“最後の大きな物語”」

文芸・映画批評の第一線で活躍する藤田直哉と渡邉大輔が、稀代のアニメーター・宮﨑駿をめぐって語り合った。
藤田直哉は『宮﨑駿の「罪」と「祈り」 アニミズムで読み解くジブリ作品史』(blueprint)を刊行。宮﨑駿は映画を通じて何を伝えようとしてきたのか。その思想的変遷を「アニミズム」を導きの糸にして解き明かしている。
渡邉大輔は『ジブリの戦後 国民的スタジオの軌跡と想像力』(中央公論新社)を刊行。宮﨑駿・高畑勲両監督をはじめ、鈴木敏夫や宮崎吾朗、米林宏昌などのキーパーソンにまで目配りをしながら、「ジブリ」という一個のスタジオ=運動体のあり方を論じている。
画期的な宮﨑駿論を刊行したばかりの両者が、日本とアニミズム、戦後日本の大衆文化、科学技術と地球滅亡のイメージなどをテーマに、縦横無尽に語り合った。
宮﨑駿を論じて見えてくるもの

ーーお二人はお互いのご著作をどのように読みましたか。
藤田:渡邉さんのご高著はジブリの戦後を論じていますが、僕の本では宮﨑駿に作家論的に迫っています。そこでは宮﨑駿という一人の人間をめぐって、細やかに解像度を上げていくような書き方を選びました。渡邉さんはそうではなく、東映動画や満州といったキーワードで、ジブリを取り巻く状況を論じていますね。映画史的な流れを追いながら、ジブリの想像力の起源には満州があるかもしれないと、批評的な想像力を膨らませている点が読みどころだと思いました。
もう一点、僕が特に面白いと思ったのは、工作的想像力について論じているところです。宮﨑作品の中では絵を描いたり、ものを作ったりするシーンがある。それは宮﨑駿の義理のお父さんが版画の教育に関わっていたことも関係している。主体がものを実際に触りながら、設計して操作する。そこで物質性に跳ね返されて相互に作りあっていく状況があると論じられていました。それは近代的主体や自我をベースとしたモダニズムの考え方とは違った、ポストヒューマン的な世界であると。人間が特権的で特別な自我としてあるわけではなく、ある種の相互作用の中で複雑にあるという関係論的な世界観を提示しています。これまでの宮﨑駿像にはなかった視点で、非常に面白く読みました。
また、これまでデジタル化に伴う映像環境の変遷と作品を往復して論じてきた渡邉さんですが、本書でも映像や作品を取り巻く環境との相互作用――環境分析の手法が応用されていて、そこも興味深く読ませていただきました。
渡邉:ありがとうございます。拙著の読みどころを的確に要約していただき、大変嬉しいです。そもそも拙著の大きな問題意識として、これまで「ジブリ」という名を冠してきた類書は膨大に書かれているものの、実はそのほとんどの中身は「宮﨑駿論」に偏向しているという状況を何とかしたいという思いがあったんですね。ご承知の通り、そこには映画批評やアニメ批評は伝統的に文芸批評の影響を受けてきており、アプローチもどうしても文芸批評的な作家論や作品研究に傾斜しがちになるという理由が関わっていると思います。そこで今回の本では、宮﨑に限らない、「ジブリという運動体」を多角的な視点から論じたいというテーマがありました。
それを踏まえて比較すると、文芸評論家でもある藤田さんのご著書は一見、僕が今指摘したような宮﨑駿の作家論の形式を採ったジブリ論でもあるのですが、実は非常に多面的に書かれていらっしゃいますよね。過去の宮﨑論ではほとんど言及されない『めいとこねこバス』といったジブリ美術館のみで上映されているマイナーな短編作品から、『柳川掘割物語』『平成狸合戦ぽんぽこ』などの高畑勲作品まで、ジブリ作品史に細かく目配りしているのが印象的です。それらの幅広いジブリ作品に窺われる宮﨑駿の思想を総体的に掴み取ろうとされている。僕らの2冊の本は表面的なアプローチは違うのですが、同世代感を含め、すごく共通する問題意識を感じて、とても面白く読ませていただきました。
宮﨑駿アニミズムの捉え方
渡邉:例えば、何より驚いたのが、藤田さんの本では宮﨑駿を論じるのに、「アニミズム」という思想に一貫して注目していることですね。本当に偶然なのですが、僕も第一章の宮﨑駿論のテーマはアニミズムでした。
藤田:それは共通点でしたね。渡邉さんからのご質問にあったアニミズムへの評価に関して言えば、ちょっとずるいかもしれないんですが、僕自身がアニミズムをどう捉えているかははっきり書いていないんです。宮﨑駿がアニミズムをどう考えているかに絞って、ニュートラルな立場から分析しているという体になっています。僕自身はシンパシーを感じる部分と、問題だと感じている部分がありますが、批判は控えめにしています。
僕と渡邉さんがお世話になった笠井潔さんは日本にアニミズム的な文化があることを問題だと考えていましたよね。それで論理的に思考できなかったり、科学的に物事を判断できなかったりして、国が戦争でめちゃくちゃになったんだという問題意識があります。だから、ミステリーのような論理的な小説を普及させることが大事だと考えていらっしゃる。けれど、作品によっては、縄文が出てきたり、アニミズムっぽいところもあって、分裂があるようにも感じていました。僕の宮﨑論では、60年代の大衆運動・カウンターカルチャーのエネルギーを、宮﨑は縄文やアニミズムと結びつけている、と読んでいます。だから、宮崎作品を探ることで、単に論理的な思考をできなくさせるものとだけアニミズムを考えるのではなく、もう少し複雑なものとして見えてくるだろうと。そこにあるのは左翼なのか右翼なのかも曖昧な何かであって、そこに踏み込むのが、この二項対立的な時代への批評として重要かと思ったんです。
宮﨑駿の作品は子どもも大人もみんな観ているじゃないですか。だから誰もが無意識に、宮﨑駿独自のアニミズム思想や自然観に影響を受けていると思います。では我々に無意識に、宮﨑駿を通じてインストールされているアニミズム的な思想とは一体なんなのか。それをちゃんと意識化して言語化し、検証したほうがいいというのが、この本の狙いでした。
アニミズムにはある種の包摂力があって魅力があるし、同時に危険なところもある。それは僕が批判しなくても、宮﨑自身が気付いて否定していく。その発展史の中で宮﨑に寄り添いながら両面を論じることで、我々の日本社会のあり方や感性について考えることができると思ったんです。丸山眞男が指摘したように、人々が近代的で論理的じゃないと民主主義が成立しないという問題意識で、日本ではもう80年ほどそういった教育を続けてきたわけですが、あまりそうはなっていないんじゃないか。だとすると、日本人を近代化しようとして糾弾し啓蒙するだけじゃなくて、よくも悪くも、今なお日本人の中に持続している精神性があることについて考えなくてはいけないんだろうと思ったんです。
日本の映画で興行成績トップスリーの作品は、いつも神やアニミズムに関する作品なんです。1位の『鬼滅の刃』シリーズには神楽などが出てきてその踊りのパワーで敵を倒す、2位の『千と千尋の神隠し』と3位の『君の名は。』にも、神やアニミズムが関係している。これには日本の大衆の中に無意識レベルで、アニメ的な表現による神やアニミズムに感応する何かがあると考えた方がいいのかなと。それがいったい何なのか、サブカルチャー化したアニミズムというか神道みたいなものの正体を探り、その意味や意義を考えたかったんです。
渡邉:なるほど。藤田さんの著作では特に、諏訪と宮﨑駿の関係性について論じた箇所が白眉でした。諏訪地域には宮﨑駿が持っている山荘(しかもこの山荘のもともとの持ち主は、拙著第五章で扱った宮﨑の義父の大田耕士です)がありますが、近隣の諏訪大社には『もののけ姫』のシシ神にも通じる御頭祭がある。しかも、今の話に繋げれば諏訪地域に隣接する佐久地域は、「ポスト宮﨑駿」とも呼ばれる新海誠の故郷でもあります。このテーマは、先行研究の中でもほとんど触れられていないんじゃないでしょうか。これは本当に面白かった。
藤田:切通理作さんの作品の中で、『となりのトトロ』と諏訪の関係はちょっと触れられてはいるんですが、そこまできっちりと論じられてはいないですね。非主流の神道、ある意味でカウンターカルチャー的に神道を読み替える装置としての縄文やアニミズムというアイデアには、宮﨑さんの別荘の近くである諏訪の影響は大きいと思います。
渡邉:そうですよね。これだけ論じられてきた宮﨑駿論でも、まだ新しい切り口があるなと思いました。ところで、藤田さんは今回の本で、アニミズムを細かく1から10まで分類して論じていますね。分類としてはやや細かすぎるかなとも感じたのですが、これには何か意図があったんでしょうか。
藤田:連載の時にはもうちょっとざっくりしていたんです。それで、もう一回最初から作品を見直していったら、その分類が間違っているんじゃないかってなって、修正したら、結果的に10種類になったというのが率直なところです。章としては大分類で5つに分けていて、さらに細かく見ると10個になります。宮﨑駿は分裂、矛盾、葛藤を抱えた人で、自分自身を否定して先に進むという特徴がありますから、アニミズム的な部分の展開はこれくらいの細かさで分類する必要が出てきました。彼はアニミズム肯定だと捉えられがちですが、そのアニミズムも結構色々で、特殊で、『トトロ』的なイメージとは違うんだということを書きたかったんです。
渡邉:そうですね。だからアプローチとしては非常に成功していると思いました。アニミズムというと一緒くたに批判されたりする危うさもありますからね。しかし本書では、宮﨑駿という一人の思想家を対象にして、彼が抱くアニミズムの多面性を炙り出すことができていると思います。
ちなみに、僕の本ではアニミズムというモティーフを扱う時に、注意したことがあります。ひとつは藤田さんがおっしゃったように、アニミズムは日本固有の想像力であり、作品を観たり批評を書いたりする以上、避けられない問題であることです。
そしてもう一つは、アニミズムは近年の僕が関心を持っているポストヒューマンという現代的なモティーフともきわめて親和性があります。アニミズムの持つ一つのイメージとして、自己と他者がずるずるべったりに混ざり合ってしまう状態があり、いわゆる他者感覚の欠如として批判されたりします。
しかし、藤田さんも『水グモもんもん』『毛虫のボロ』に言及されていますが、宮﨑的なアニミズムの可能性というか、現代のポストヒューマン的な視点からも面白いのは、宮﨑駿が『毛虫のボロ』などで描いているのは、それとはまったく対照的な世界ですね。つまり、そこで描いているのは、私たち人間ではなく、虫の視点です。人間以外の有象無象の視点、つまりヤーコプ・フォン・ユクスキュルのいうような環世界が多元的に広がっているイメージなのです。人間という主体はあくまでもそのひとつとして描かれる。そこに、現代のアニミズムの可能性があると思います。そういう多元的なビジョンが、藤田さんのアニミズム論の中でも書かれていたので、非常に共感して読んだところでした。
藤田:「母なるもの」としてのアニミズムへの憧れの中には、自己と他者の境界がなくなる状態への回帰願望があり、それがおっしゃる通りの問題を含むことは確かでしょう。自他境界が曖昧になると言いますか。『機動戦士ガンダム』のシャアとアムロとララァのエピソードとか、『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」は、その志向への批評なんだと僕は思っています。だから、やっぱり自他の境界を作るような「切断」「境界」も大事だと、『君たちはどう生きるか』では提示しているような気もします。
ところで、渡邉さんが現代的なタイプのアニミズム論と、脱人間中心的な視点を繋げているのは、非常に面白いと思いました。僕の論はもうちょっと土着の匂いを残しているけど、渡邉さんはもう少し抽象的なシステムの感じがします。





















