教養としての実践的キリスト教 海外フィクションで描かれるキリスト教を直接的に題材にした作品

■フィクションで描かれるキリスト教
今回キリスト教について三回に分けて解説をしてきたが、これまで二回の概略ですでに1万文字を超えてしまった。一つの世界宗教を説明しようとすると、概略だけでもどうしてもこれだけの文字数は必要になってしまう。これでもかなり端折ったつもりなのだがご容赦いただきたい。三回目の最後となるが、キリスト教を直接的に題材にしたフィクション作品をテーマごとにいくつか紹介する。日本の作品やアニメ、漫画も含まれる。
■『教皇選挙』(2024年) コンクラーヴェ
コンクラーヴェはカトリック教会のトップである教皇の席が空席になった時に新しい教皇を決めるために行う儀式である。ロバート・ハリスの小説を原作にした映画『教皇選挙』の原題は"Conclave"で儀式そのものが映画のタイトルになっている。コンクラーヴェとはイタリア語で「鍵をかけた」という意味で、教皇選挙の投票権を持つ枢機卿たちは外部との連絡を絶ってシスティーナ礼拝堂で秘密会議を行う。
枢機卿たちは一日複数回の投票を3分の2以上の得票者が出るまで繰り返す。数日単位の長期間になる場合もあり、「コンクラーヴェは根競べ」だとのダジャレもある(もちろん日本限定で通じるダジャレ)。投票の結果は暖炉で投票用紙を燃やした時に出る煙の色で外部に伝えられる。再選挙の場合は黒い煙だが、教皇が決定した場合は薬品で白い煙が出るようになっている。これも映画『教皇選挙』ではっきり描写されていた。この煙の色で結果を伝える慣習はダン・ブラウンの小説を映画化した『天使と悪魔』(2009年)でも描写されていた。
教皇の席が空席になる理由は殆どの場合教皇の死去だが、稀に教皇が存命のまま退位することがある。カトリックの長い歴史でも極めて稀なことであり、ベネディクト16世は2013年に存命のまま退位したが、生前退位したのはグレゴリウス12世以来598年ぶりだった。映画『2人のローマ教皇』(2019年)はジョナサン・プライス演じる現教皇フランシスコ(映画劇中の時間軸ではホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿)とアンソニー・ホプキンズ演じるベネディクト16世の対話で構成されており新旧二人の教皇の姿勢の違いもうかがえる。20世紀後半以降のカトリック教会は劇的なまでにリベラルの方向に向かっており、現教皇のフランシスコもリベラル派だがベネディクト16世は保守派だった。カトリックも一枚岩ではなく、『教皇選挙』のように保守派の枢機卿も一般信徒も相当数いることだろう。『教皇選挙』の冒頭で死去した教皇は一言もセリフが無かったが、その後の間接的な描写からリベラル派だったことがうかがえる。おそらく現教皇を意識したのだろう。
■『ミッション』(1986年) イエズス会と宣教
キリスト教は一般に広まるにつれて世俗化していったが、それに反発して世俗を離れた修行に励む「修道士」というスタイルも誕生した。修道士といえば人里離れた修道院で世俗から離れた禁欲的な生活をしながら修行に明け暮れるものが一般的なイメージだが、世俗にとどまり修行を行う修道士もいる。
世俗から離れて瞑想や祈りに専念するのを「観想修道会」といい、民衆の中で托鉢しながら信徒に教えを説いたり、貧民や病人の救済を行う活動的なものを「托鉢修道会」という。フランシスコ修道会、ドメニコ修道会がこれらの例で、実はわが国にキリスト教を伝えたイエズス会もその一派である。イエズス会は宗教改革で各国の教会がカトリックから離脱する中、海外での宣教に身を投じた。映画『ミッション』は16世紀末から18世紀にかけて、南米各地に建設されたイエズス会伝道所の活動の歴史を基に制作されている。
遠藤周作の小説を原作にした『沈黙 -サイレンス-』(2016年)の主な背景は江戸幕府による宗教弾圧だが、イエズス会の宣教も関連している。主人公のセバスチャン・ロドリゴはイエズス会の司祭である。劇中ロドリゴ自身も投獄されたりさんざんな目に合うが、そんな危険を賭してまで彼らが布教活動を行ったのは彼らなりの使命感があったためだ。それは後述する。