日本はハリウッドに次ぐ映画大国だった? 最新技術、制作本数、活動弁士ーー独自の発展、軌跡をたどる

■映画史本からみるスタジオ・システム

(左から)北野圭介(著)『ハリウッド100年史講義』(平凡社)と四方田犬彦(著)『日本映画史110年』(講談社)

    映画関連の書籍は山のようにある中で、映画史に関する本は実に少ない。筆者が入手できたのは映画史に関するものは北野圭介(著)『ハリウッド100年史講義』と四方田犬彦(著)『日本映画史110年』ぐらいである。これら二冊は、それぞれハリウッドと日本の映画史をまとめた良書といえよう。今回はそんな書籍から日本の映画史を軸に歴史を振り返ってみたい。

■意外な歴史―ハリウッドに次ぐ映画大国だった日本 

  世界最初の映画として名前の挙がることが多い、ルイ・リュミエール監督の『工場の出口』が上映されたのは1895年のことである。それからわずかに2年後、スクリーンに投影して上映を行うシネマトグラフ方式の上映会が日本で開催された。情報伝達も物資の運搬速度も現代に比べ、はるかに遅かったはずの19世紀末、ほんの2年のタイムラグで我が国は「映画」という最新技術にアクセスしていた。これは凄いことだ。

  そしてその翌年の1898年、日本で最初の映画が我が国における撮影技師の草分けとなった浅野四郎によって撮影されている。浅野による『化け地蔵』『死人の蘇生』などは「映画」というより「記録映像」というべきもので、日本映画史におけるストーリーのあるフィクションの登場は『本能寺合戦』(1908)が初となる。『本能寺合戦』を監督した牧野省三は日本初の職業映画監督として日本映画史に名前を残している。世界初のストーリーがある映画と言われているのはジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』である。ストーリーのある映画の制作に最先端からわずかに6年しか遅れていない。日本は幕末から明治にかけて世界でも類例を見ない速度で近代化に成功したが、こうして調べてみると我々のご先祖様たる当時の日本人の、新しいものへのアンテナの強さ、吸収・学習能力には瞠目させられる。

  その後も日本映画は順調に成長していく。ハリウッドでは1910年代からただ撮るだけでなく「演出」をする「映画監督」の存在が成熟していくが、日本でも映画監督の存在が急速に成熟していき、1920年代から1930年代になると、小津安二郎、溝口健二、内田吐夢などの後の巨匠がデビューしていく。この時代の映画は時代劇のスターが興した個人プロダクションが制作していたが、トーキー革命に耐えきれず個人プロダクションが消滅すると、意欲的な映画監督や脚本家は松竹、日活、東宝の大手に移って自信を磨き、スタイルを確立していく。太平洋戦争が勃発する1941年以前、日本はアメリカに次ぐ年間500本近い映画を制作する誇張抜きの映画大国だった。

  ところで、トーキー革命以前の日本には、日本映画限定の独特の上映文化が存在した。活動弁士(かつどうべんし、かつべん、べんし)である。無声映画を上映中に、傍らでその内容を解説する専任の解説者である活動弁士は日本の映画上映文化特有の存在だ。音声の存在するトーキー以降はほぼ消滅してしまったが、その歴史はかなり長く、シネマトグラフ方式以前、幻灯(絵・写真などに光線をあて、レンズで拡大して幕に映し出して見せる装置)が1886年ごろにわが国で流行した折にすでにその存在が記録されている。シネマトグラフ方式による映画に活躍の場が移行してからも、当時の観客は活動弁士の存在に特に疑問を感じておらず、日本の映画史における初期のころ、観客は監督や出演者よりも目当ての活動弁士がいるかどうかが劇場に足を運ぶ時の指針になっていたというほどの影響力があった。

  こういった活動弁士の存在は、「西洋文化に疎い観客への解説役」という実際的意味もあったが、おそらくは日本の伝統芸能からの影響もある。能楽の地謡、歌舞伎の義太夫、文楽の浄瑠璃など日本の伝統芸能には肉体的表現とは別のところで別の人物が音声を担当するという文化がある。そういった下地があるため、観客に受け入れやすいという側面もあったのだろう。西洋でも1900年代の中ごろに、複雑化した映画の話法に困惑する観客のために説明者が置かれたことがあったが、その制度は数年で消えている。西洋の映画が西洋の伝統である演劇から影響を受けているように、日本の映画もまた伝統文化から影響を受けているとも言えるだろう。

  1930年代にトーキーの浸透で急速に姿を消していった活動弁士だが、現在でも少ないながら現役で活動する弁士は存在する。東京・高円寺のシアターバッカスは活弁シネマライブと称してたびたび、活動弁士付きの無声映画上映を行っている。(同劇場には拙作『正しいアイコラの作り方』も9月初頭にかけていただく予定である)

  さて、独自の文化を内包しつつ成長していった日本映画だが、一度致命的な危機に陥る。第二次世界大戦である。1941年に主戦場はヨーロッパから太平洋戦線に移り、日本は本国の国土にも多大な被害を被った。ABCD包囲網による経済制裁でアメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられた。終戦した1945年。その年の日本映画製作本数は僅か26本に過ぎなかった。

  戦後、GHQの検閲による不満足な時代が終わると、日本映画は不死鳥のようによみがえる。1950年代に入ると。黒澤明、溝口健二、衣笠貞之助らが相次いで国際的な賞を獲得し、日本映画は急速に国際市場で評価を高めていく。大手映画会社が大作を発表し、独立プロが尖った作風の小品で存在感を発揮し、競い合って作品を制作し続けた。映画製作本数は当然、急上昇し1960年には547本で最高に達した。アメリカ、香港、インドと並ぶ本数である。1958年には観客数が11億を超え、史上最高を記録した。質・量ともに日本映画がピークだった時代と言えるだろう。

  しかしその後、テレビとの競走との激化などを背景に大手映画会社が経営体力を失っていく。1961年には大手6社で520本もの映画を制作していたが、1986年には3社で24本にまで減少した。この時代が日本映画が完全に底を打った状態である。

  現在の日本映画は制作委員会方式、テレビ局主導による映画、ネット配信、アニメ作品の台頭などにより1950年代と全く様相が異なるものの、少なくとも制作本数は大きく回復している。2010年代以降のデータを見ると毎年500本以上を平均して超えており(コロナ禍を除く)、世界的に見ても制作本数は5位内には入るなかなかの大国である。そこに質が伴っているのかは議論の余地があるかもしれないが、安定して映画が制作される環境であることは悪いことではないだろう。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「カルチャー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる