【連載】速水健朗のこれはニュースではない:宮崎駿の後継者問題

宮崎駿の後継者問題

 ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。

 第10回は、宮崎駿の後継者問題について。

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宮崎駿の後継者についてつい論じてしまう理由

 宮崎駿は後継者づくりに失敗したっていつから言われ続けているのか。企業であれば理解もできるが、個人の想像性なんてそう継承できるものでもない。

 もちろん、アニメーション・スタジオの仕組み的には、複数の企画、制作が回るチーム体勢が大事で、看板となる演出家が2人3人ほしいという話はわかる。ただその枠に留まらずに、宮崎駿の後継者についての話題は、またちょっと別の意味を持っているかもしれない。

 僕らは20年以上にわたり、「これが最後かもしれない」との思いを持って宮崎駿の新作を見てきた。『崖の上のポニョ』『ハウルの動く城』『風立ちぬ』しかりだ。鈴木敏夫の手腕による、絶妙な匂わせに、皆が乗りすぎた側面もあるだろう。ちょっと勘違いするような宣伝、ブランディング、やり方、あれこれ。もちろん、それだけでもない。

 『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』はどれも滅びる寸前の王国が描かれている。そして、王国(部族)を継承する少女が登場する。彼女の行動に国家の未来がかかっているから夢中になる。逆に言えば、ナウシカがそこらの村人の娘だったらどうか。庶民と同じ目線でしゃべることなんて当たり前。観客は、「高貴の血脈の生まれ」にしては、やんちゃという視点でのめり込んでいるのだ。こうした物語の構造は、貴種流離譚と呼ばれる。

 ナウシカの生まれの話はともかく、宮崎駿の作品には、継承や後継者を巡る話は多い。『紅の豚』はFIREした男が、若い女性エンジニアに機体を引き継ぐ話。『魔女の宅急便』は、魔女時代の終わりに、けなげに母親の後を継ごうとする最後の魔女の話。『千と千尋の神隠し』は、湯屋のいろいろな場所で仕事をする新人研修の話。湯婆婆は、自分の後継者として千を見ているに違いない。僕らが宮崎駿自身の後継者についてつい論じてしまうのは、彼の作風とかかわりがあるのだろう。

ジョン・ラセターには後継者がいるのか

 一方、対比として語りたいのはジョン・ラセターの話。彼には後継者がいるのか。

 ラセターと言えば『トイ・ストーリー』が代表作だが、このシリーズは、おもちゃの"その後"を巡るもので、子どもはおもちゃに飽きる。そして、すぐに成長するので、気が付けばおもちゃは不要というのが大前提。そのときおもちゃに何ができるかという視点に立っている。

 1作目は、まさに飽きられてしまったおもちゃの話。主人公のウッディは、カウボーイのおもちゃ。当初は気に入っていたが、新しい宇宙飛行士のおもちゃのバズ・ライトイヤーが来ると、子どもはすぐにそちらに興味が移った。ウッディは悲しむ。当初は対立するウッディとバズだが、両者は協力して危機を乗り越える。ただ本作では、子どもがいつかすべてのおもちゃに飽きるというところに向き合うことなくエンディングを迎えた。

 2作目は、おもちゃたちがコレクターに引き取られそうになる話。おもちゃは価値を認められ、大事にされるが、それではおもちゃはしあわせになれない。おたく批判ゆえに傷つく人もいそうだ。ただ、この辺りからおもちゃとは何かを巡る話がクローズアップされる。
 ついに避けられない事実と向き合うのが3作目。おもちゃの持ち主のアンディが大学生になる。もう、おもちゃで遊ばない。そして、おもちゃたちは、託児施設に引き取られる。そこには悪いボスがいて、ウッディたちの大脱走劇が始まる。

 この3作目のラストは、継承の話だ。それがいかにもアメリカ的だ。ウッディたちは、一人遊びの上手な小さな子どもの家に引き取られる。ここでのおもちゃは、「才能」や「クリエイティビティー」の象徴。それをいかに次世代にゆずるか。「おもちゃのその後」を貫くシリーズの結論は、才能は、血縁ではなく、他者に引き継ぐというものだった。

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