「才能」とはなにかーー沖縄アクターズスクール創設者・マキノ正幸が見出した、安室奈美恵の輝き

マキノ正幸が遺したもの

「才能」とはなにか

 マキノ正幸が亡くなった(6月28日、享年83)。娘の牧野アンナをも通わせた沖縄アクターズスクールを創設し、こどもたちの才能を見抜き、安室奈美恵を発掘。何人ものスター(MAX、SPEED、DA PUMP他)を送り出した。

 57歳のとき上梓した自著のタイトルは『才能』(講談社)と大きく書かれてある。「がんばりなさい、だれにでも才能はあるんだから」という啓発書はカバーさえ変えれば何冊でもできそうだが、マキノの『才能』は無論マキノにしか書けない。なぜならマキノが才能のない自分に初めて気づいたとき、会社は火の車だったからである。

 「ライバルのいない沖縄でやれば、流行るだろう」(P. 88)

 事実、沖縄初の芸能学校となったスクールの開校(1984年4月)は鳴り物入りだった。初回の定員85名に対し、応募数は1600人。ところが、半年も経たないうちに生徒がどんどん減っていく。再募集をかければいいと過信したところ、問い合わせはたったの16件。気づけば「あそこの授業はつまらない」との評判が市内を中心に流布されていた。

 だが、ほんとうの試練はこれから。教師たちまでもが辞め、彼らはべつの芸能学校を設立する。「校長は見ているだけだから、それなら自分たちでやった方がもうかる」(P. 89)

  校長でありながら二の句が継げない。事実、なにもかもが素人だったからである。教育者としての経験もなければ学校経営も初めて。スクールの代名詞となるダンスのダの字も知らなかった。

 沖縄に根を下ろすまで、都内で人気のジャズクラブを経営していた時期がある。ところが飽き性のため、成功を見届けさえすれば満足し、あらたな事業に手を出す。そして、そこでまた実を挙げる——「“青年実業家”という肩書が欲しかっただけなのかもしれない」(P. 80)

 ところが沖縄に来て、その才能がメッキだったことを知る。マキノの父は映画監督のマキノ雅弘で、母は女優の轟夕起子、従兄には長門裕之がいる。多くの人間は、そんな金づるを辿って寄ってきたのだと気づく。だが、気づいただけではスクールもなくなっていれば、あの破格の“才能”との出会いもなかっただろう。

 マキノはその後、これほど苦労した時期はなかったといえるほど勉強に打ち込んだ。ダンスの実践はもちろん、学術書を読みあさりながら独自のメソッドを考案。空手を取り入れSUPER MONKEY'S(ソロ前の安室がいたグループ)を育て上げた話はよく知られているが、武術効果の目的に黒人のリズム感の習得があったことはそれほど知られていない。ストリートダンス以降、より重要となった下半身への重心移動に、丹田に意識を置く武術の呼吸法が生かされる。結果、ダンスミュージックの定番である16ビートへの対応を円滑にするというマキノなりの理論が生まれた。

 琉球の大地を大根のような脚で踏み、土の匂いと潮風を感じとる。それをエネルギーに変え、上半身に吸い上げ舞う。マキノはそうやって実践からも学んだが、クラブを経営していたときの“恋人”の姿もそこには浮かんでいたのかもしれない。

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