富岡製糸場、世界遺産登録までの全内幕ーー『絹の襷』著者・稲葉なおとに聞く“建築保存”をめぐる熱き攻防

■世界遺産に登録された富岡製糸場にはさまざまなドラマがあった

富岡製糸場のレンガは、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教えてつくられた(フランス積み)。この積み方はフランス北部のフランドル地方の技法のためにフランドル積みとも呼ばれている。写真:photolibrary

 2014年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、世界遺産に登録された富岡製糸場。世界遺産と聞くと、法隆寺や日光東照宮のような社寺仏閣を連想する人が多いだろう。富岡製糸場は、登録当初は日本でも数少ない“産業遺産”であったため、「これが世界遺産なの?」と、世間からも驚きの声が上がった。

  富岡製糸場はいかに守られ、世界の宝になったのか――綿密な取材を行い、その背景を詳らかにしたノンフィクションが『絹の襷(きぬのたすき) 富岡製糸場に受け継がれた情熱』(稲葉なおと/著、慶應義塾大学出版会/刊)である。

『絹の襷(きぬのたすき) 富岡製糸場に受け継がれた情熱』(稲葉なおと/著、慶應義塾大学出版会/刊)

  本書は、1872(明治5)年に建設されて明治時代の殖産興業の象徴となった工場が、のちに民間に払い下げられ、操業停止後も取り壊されることなく、富岡市に寄贈され、文化財の指定を受け、ついに世界遺産として認められるまでの歩みを克明に記す。我々が見ることができる赤レンガの建築群は、まさに襷を渡すように受け継がれてきたことがわかる。

  日本では、建築を竣工させるよりも残すことの方が難しいといわれる。高度経済成長期は明治時代の洋風建築の保存が議論になり、近年は戦後のモダニズム建築の保存が騒動になっている。市街地の一等地に建つ富岡製糸場が保存されたのは、最後の所有者となった片倉工業のとある人物の尽力が欠かせなかったという。

  今回、10年にわたって富岡製糸場や富岡市の関係者への取材を続け、一冊の本にまとめた紀行作家・一級建築士の稲葉なおと氏にインタビューを敢行。本書を一読した後に富岡製糸場を探訪すれば、その歴史の重みを一層感じることができるかもしれない。

■富岡製糸場なぜ興味を持ったのか?

稲葉なおと氏が上梓した『絹の襷』。10年にわたって富岡製糸場や関係者への取材を続け一冊の本にまとめた力作だ。

――まずは、稲葉さんが富岡製糸場に関心を持たれたきっかけから伺いたいです。

稲葉:富岡製糸場が世界遺産に登録された直後ですので、今から10年前です。東西の置繭所(おきまゆしょ)や繰糸場といった赤レンガの工場建築を見学し、圧倒されましたことをよく覚えています。その富岡訪問の直前なのですが、世界遺産登録を伝える新聞記事の中で、登録への過程で、富岡製糸場を守った立役者である、片倉工業の栁澤晴夫(やなぎさわ はるお)さんのお名前を知りました。歴史的に価値ある建築や建築界の大きな受賞歴のある建築でさえ次々と建て替えられている時代に、会社として利益を生んでいない工場を残すのは、現代の常識ではあり得ません。なぜ栁澤さんがここまでして閉鎖してしまった工場を残したのか、興味を抱きました。

――栁澤さんの想いを知りたいというのが、取材を始めようと思った動機なのですね。

稲葉:はい。そもそも、この本を書き始めた動機は、栁澤さんが建物を壊さなかったのはなぜなのか、という思いを読者の方々と共有したいと考えたためです。といっても、いきなり富岡まで出かけてもすぐに「ようこそ」とはなりませんから、取材するタイミングを探っていました。すると、不思議なご縁がありました。ある大手医薬品メーカーの雑誌から、「巻頭に14ページ用意しているので、富岡製糸場が世界遺産になった経緯を稲葉さんの視点で書いてほしい」と依頼があったのです。

――凄い巡り合わせですね。かくして取材が始まったわけですが、地方での取材は苦労も多かったのではありませんか。

稲葉:地道な取材の連続でした。現地の人たちから話を聞き、裏付けを取る……のくり返し。取材を重ねるうちに、片倉工業と富岡市の関係は一時期ぎくしゃくしていたのに、緊張感がどうやって絹のようにほどけたのか……と、知りたいことが膨らんでいきました。ただ、残念ながら当時を知る人は亡くなった方も多く、片倉工業も退職された方の個人情報である連絡先は出せなかったりするわけです。見えない障壁に直面することも多かったのですが、それでも根気強くできることから取材を進めていきました。

■世界文化遺産登録までの立役者とは?

――富岡製糸場が建築学的にどのような価値があるのか、といったアカデミックな内容以上に、栁澤さんだけでなく、建設から操業、維持、保存に関する関係者の人物像やその方々の思いを掘り起こすことを大切にしているのが、この本の特徴だと思います。

稲葉:富岡製糸場に限らず建築の魅力を伝えるのはなかなか難しいんですよ。細かいディテールとか、構造的な話はもちろん、どうしても専門用語が出てしまい、理解していただけないというのが、私のこれまでの経験でした。ですが、建築を建てたり、残するために尽力してきた人々の物語は誰にでも伝えられる。建設と保存に尽力した人たちの物語を書けば、富岡製糸場の価値をより広く知っていただけるのではと思いました。

――片倉工業の業績が悪化していた当時、建物を残すのは、強い熱意がないとできませんよね。

稲葉:栁澤さんは生え抜きの社長で、製糸業の世界的な栄枯盛衰を見てきた方です。入社した当時、片倉工業は国内外にたくさんの工場を稼働させていたのに、絹よりも安価な合成繊維が主流になるという、時代の潮流に呑み込まれるように、製糸業の実績は下降を余儀なくされていました。だからこそ、かつての世界に名だたる繁栄の歴史を伝える貴重な建築・富岡製糸場は、国民の財産である、それを安易に壊してはいけないと栁澤さんは思われたのではないかと私は本書の中で推察しています。ですが残念なことに、世界遺産になったのは、栁澤さんが会長、相談役と歴任され、その後、片倉工業を退いたあとのことでした。

――なんと、そうなのですか。

稲葉:登録が決まった時に拍手を浴びた群馬県知事の大澤正明さんや富岡市長の岩井賢太郎さんも、登録に向けて動き出したときの関係者ではなく、その後の襷(たすき)を受け継いだ方々です。だからこそ、この本では、登録の時点ではスポットライトを浴びることができなかったけれども、忘れてはならない方々、登録の礎(いしずえ)の人たちとその業績を記しておきたいと思ったのです。

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