松本清張、なぜ再注目? 『松本清張はよみがえる』『松本清張の昭和史』に読む、現代的価値
保阪正康は、「清張史観とは、松本の同時代的、社会的な、どちらかといえば「弱者の目」から出発して、このような現実がなぜ起こったのかを丹念に追いかける視点というべきであった」と指摘している。こうしたスタンスで書かれた松本清張の一連のノンフィクションには、戦争や事件といった大変な出来事が起こって、それが自分たちの人生に多大な影響を与えても、何が原因だったのかが分からずモヤモヤとしていた庶民の気持ちを、代弁してくれるところがあった。
日本の歴史を曲げた二・二六事件にしても、国鉄の大リストラを実現に向かわせた下山総裁の不審死にしても、そこにどのような意識や思惑が働いて起こったものなのかを、庶民はなかなか知ることはできない。そこに切り込んでいった松本清張の筆が、情動なり謀略の存在を暴くことで、自分たちが生きている時代がどのように形成されたのかを知ることができる。
それは、現在進行形で起こっている事態に対するシビアな視点を持つことも、当時の読者の人たちに促したことだろう。そして今を生きている人たちにも。『松本清張の昭和史』は、巻末に著者の保阪正康と、歴史学者で東京大学大学院教授の加藤陽子による対談が収録されている。そこで加藤は、新装版『昭和史発掘』に収録されている「朴烈大逆事件」について触れ、権力者が人心を操ったことがかつてあり、今も注意しておく必要性を訴えている。
もっとも、今まさに起こっているかもしれない社会や政治の裏の動きについて、調べ迫って世に問うてきた松本清張はもういない。報道を騒がす出来事がどのような経緯で起こったのかを、庶民が知る術がないままでモヤモヤとした気分だけが漂っている。だからこそ、小説として庶民の怒りや欲望を描き、ノンフィクションとして歴史の裏に迫った松本清張のような書き手が求められるのだ。
『松本清張はよみがえる』と『松本清張の昭和史』はそんな、現代の松本清張と言うべき存在となる上で必要な考え方や、対象への迫り方を教えてくれる本だと言えそうだ。