麻布競馬場らがSNS世代の心臓を直撃! 平成初期生まれに刺さりまくるアンソロジー小説『#ハッシュタグストーリー』

SNS世代を直撃『#ハッシュタグストーリー』

 いやー、もういい加減にしてくれよ! と言いたくなった。いい加減にしてくれ。わかったわかった、お願いだから、これ以上私の心臓の、いちばん引っ掻かれたくない部分を、ぐさぐさと刺さないでくれ! と。

『#ハッシュタグストーリー』(双葉社)の破壊力、すごいですよ。けっこうなもんです。少なくとも、1992年生まれの、SNSとともに思春期を過ごした私には、大ダメージだった。「うごぉぉ……」と、謎の悲鳴を上げながら全4話を読み終えたのが、ついさっき。はあはあ。なんだかまだ心臓の底のあたりが、どこどこと踊っている感じがする。

『#ハッシュタグストーリー』は、その名のとおり、SNSにまつわるアンソロジーだ。麻布競馬場さん、柿原朋哉さん、カツセマサヒコさん、木爾チレンさん――4人の小説家が、それぞれ「心に刺さるSNSのいい話」をテーマに執筆したショートストーリーが、一冊にまとめられている。

 どの話もいいのだが、何よりもまず、注目したいのは、それぞれの作家のプロフィールに書かれている、生まれ年だ。

麻布競馬場さん:1991年生まれ
柿原朋哉さん:1994年生まれ
カツセマサヒコさん:1986年生まれ
木爾チレンさん:1987年生まれ

 そう、世代なのだ。

 どんぴしゃ世代なのである。

 つまりこれは、SNS黎明期に青春時代を(おそらく中学、高校、大学など多少の差こそあれ)過ごした作家たちのアンソロジーなのだ!

 だからだろうか、本書には、「うおおお、もうやめてくれー!」と叫ばずにはいられないような、懐かしさを感じさせる描写が多い。ガラケーの赤外線通信で「メアド」を交換し、2ちゃんねる(5ちゃんねるではない、あしからず)の「異世界から来たけど質問ある?」系のスレッドを読み漁り、mixiの紹介文をせっせと書いていたような私には、もう、悶絶ものだった。うら若き自分がページの上を走り回っているようにも思え、もう戻れないあの日をまざまざと見せつけられているようでもあり、最後まで唸りながら読んでしまった(心臓が痛いのに、ページをめくるのをやめられないって、なんなんだろうね、これ)。

 たとえば、柿原朋哉さんの『#いにしえーしょんず』には、こんな描写がある。

 オタクであることを隠している主人公・瑞姫のアルバイト先に新人が入ることになり、彼女は同僚・杏子と「どんな人が来るんだろうね」と噂話をするのだが、このときの心理描写がまた、たまらなくいいのだ。

「私はイケメンがいいな。寿命が延びる」
 成田杏子の言う「寿命が延びる」は、近年のヲタク用語だ。推しの尊さを感じたときに、「助かる」とか「白米何杯でもいける」とか「寿命が延びる」と言うのだ。
 私のような古のヲタクは、「墓を建てた」り、「召され」たり、「吐血した」りしてきた。
 古のヲタクは基本的にネガティブな人が多いのか、感情が昂った際に「死」へと向かおうとする。一方で、新しいヲタク――令和のヲタクは「生」へ向かおうとするのだ。(本書61-62ページより)

 そうそうそう! この、ちょっとしたひとことで、陽キャと陰キャの違いを一方的に感じ取って、勝手にうじうじしちゃう感じ! こういうタイプのしんどさ、人生で何回味わってきたかわかんないよと、瑞姫の両手をがっしり握りしめてぶんぶん振り回したい気持ちになった。

 また、カツセマサヒコさんの『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』では、高校生特有のノリで出来上がった流行語が、10年後思いがけず、社会人になった主人公を救うまでのストーリーが描かれる。意外な展開の連続で、共感しつつも、はらはらしながら最後まで読んでしまった。

「#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ」はE組独自の流行語としてSNSに頻繁に登場し、次第にその意味は、ただの出店名を飛び越え始めた。中間テストの結果を嘆く投稿に使われるときもあれば、遊園地で撮った集合写真に使われることもあった。悲しいときや怒っているとき、嬉しいときや悲しかったとき、その感情を増幅させるような言葉として登場し、教室という限られた空間において、確かな影響力を持つようになっていった。(本書120ページより)

 ただの内輪ネタのつもりが、じわじわとコミュニティ全体に広がっていくときの、あのわくわく感。それほど親しくなかった人とも、一つの言葉で一気に距離が縮まる、胸の高まり。きっと誰しも、似たような経験をしたことがあるんじゃないかと思う。

 さらに、麻布競馬場さんの『#ネットミームと私』という作品もいい。このエピソードでは、インターネット上に溢れる「単純」で「わかりやすい」ストーリーに抗い、自分の殻を破ろうとする女子高生の姿が描かれている。

 優秀な姉へのコンプレックスや、家族への苛立ちを抱え、悶々とした日々を送っていた好美。指定校推薦で私立大学への進学が決まるものの、「これで本当によかったのか」と、ぐるぐると考え続けてしまう。

 そんな好美に、同級生の上田が、こんなことを言い出すのだ。

「せっかく、春から一緒の大学行くわけだしさ、仲良くしようよ。こんなクソ田舎捨てて、一緒に東京を楽しもうよ。私たち、いい友達になれるし、東京で新しい人生をスタートできるよ、きっと!」

 それを聞き、好美ははっとする。「つまらない田舎を出て東京に行けば、すべてが変わる。一発逆転できる」と言わんばかりの上田に、違和感を抱くのだ。

彼女は、世界のすべてを分かりやすいストーリーに、それも彼女の世界の中に先行して存在するストーリーに無理やり当て嵌めて、乱暴に理解しようとする人間なのだ。(中略)でも、違う。確かに私の世界には、もちろん好きな人も、嫌いな人もいる。しかし世界は、それだけの単純明快なものである必要はないんじゃないだろうか? 曖昧さや矛盾がそこにあってもいいんじゃないだろうか?(本書34~35ページより)

 このシーンを読んだとき、好美、あんたえらいよ、よくやったよと、彼女の背中をばんと強く押したい気持ちになった。劣等感もあって、自信もなくて、おそらく何をやっても不安だろう10代の少女が、それでもがむしゃらに自分だけの道を見つけようとする姿に、じんと胸を打たれた。

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