「マンガとゴシック」第12回:チャールズ・バーンズ『ブラックホール』とタラッサ的退行——シアトル、グランジとの同時代的共振

思春期ボディホラー

 いきなり映画の喩えになって恐縮だが、デヴィッド・リンチ作品のアメリカン・シュルレアリスムと、ガス・ヴァン・サント作品におけるティーンエイジャーの精神の荒涼の出合い——そのようなものがありうるとしたら、チャールズ・バーンズの『ブラックホール』を措いて他にないだろう。

 『ブラックホール』は1995年から2004年にかけて、ファンタグラフィックス社から一冊32ページほどのコミックブックとして12分冊で刊行され、2005年にパンテオン社によって一冊にまとめられた。USオルタナコミックの金字塔的作品として名高い一作であり、小学館集英社プロダクションから翻訳も出ている。とはいえ現在は絶版、全米の熱狂ぶりに比して日本ではあまり話題にもならなかったようだ。とはいえこの傑作が読まれてないことは「マンガとゴシック」連載的には言語道断である。

 1970年代中頃のシアトルを舞台にした高校生たちの物語で、ティーンエイジャーにだけ発症する疫病が街中を覆っている。その病はセックスを経路にして感染し、背中や足の裏に女性器状の裂傷が現れたり(クリス)、喉に歯の生えた口が現れたり(ロブ)、指の間に水かきができたり(リサ)、兎唇になったり(デイヴ)、尻尾が生えたり(エリザベス)、あばらの辺りに瘤が出来たり(キース)と様々な奇形症状を呈する【図1】。

図1 謎の疫病によってフリークス化した高校生たち
出典 チャールズ・バーンズ、椎名ゆかり訳『ブラックホール』(小学館集英社プロダクション、2013年)見返し部分より。

 エイズや妊娠恐怖の隠喩であるとも考えられたが、バーンズ本人はそれを否定し、これは「10代の性そのもの」を表していると語っている。子供から大人へ変わる思春期というものは、往々にしてグロテスクな過渡期である。我が国においてもなぜ恐怖マンガ家の楳図かずおが『14歳』というタイトルの作品を出したのか、あるいは萩尾望都『ポーの一族』の吸血鬼エドガーが14歳で時が止まってしまったのかは、その説明になりおおせている。『ぼくは十代の狼男だった』とか『ぼくは十代の吸血鬼だった』というホラー映画のタイトルが象徴するように、ニキビや初潮といった突然の体の変化に悩まされる思春期それ自体が怪物のメタファーで語られる伝統があるのである。

 思春期特有のダークでぬめっとした肉体を、バーンズは白と黒の明白なコントラストで濃密に描く。しかし画面上は白に対してほとんどが黒で占められ、「〈白〉をナイフで切りだしてきたような風景」(小野耕世)とは言い得て妙である。ロバート・クラムやダニエル・クロウズ、それからクリス・ウェアのようなUSオルタナコミックの他の作家たちと較べてみても、ここまで漆黒に憑りつかれた作家はほとんどいないように思える。

チャールズ・バーンズの作風——楳図かずお?  US版ガロ?  ボディホラー?

 しかしどこか見覚えがある。例えば海外コミック研究・翻訳で知られる小野耕世は「ホラー・コミックスの生理感覚」(『世界コミックスの想像力』所収)というテクストで、バーンズ『ブラックホール』と楳図かずおマンガの似通った皮膚感覚を指摘している。「ごくあたりまえの場面のようでいて、常にそこにはなにかただならない気配が濃密にたちこめ」、「その絵を見ている者の皮膚にまとわりつくような感覚」があるのだと。あるいは日本版に帯文を寄せている望月ミネタロウに近いセンス・質感も持っているかもしれない(エド・ピスコーとジム・ラグのYouTubeチャンネル「Cartoonist Kayfabe」でも『ドラゴンヘッド』と比較していた)。

 とはいえ私が『ブラックホール』の漆黒に触れ、まず連想した言葉は「US版ガロ」であった。つげ義春、鈴木翁二、安部慎一といったこちらの魂を吸いつくすような黒さ、暗さに近いものを感じた。実際、バーンズが初期作品を掲載していたコミック・アート誌『RAW』は、つげ義春の「紅い花」と「大場電気鍍金工業所」を掲載した功績でも知られているから、同じ実験マンガ誌に名を連ねるつげとバーンズにはどこか共振するオルタナな感性があったのかもしれない(ちなみに小野耕世が『マウス』で知られるアート・スピーゲルマンにつげ作品を読ませたら感動して、掲載に至ったという)。

 60、70年代の『ガロ』的な漆黒表現のみならず、肉体が畸形的に変形していく嗜好をもつボディホラーとしての面も強い。その意味で冒頭に名前を挙げたデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』、あるいはデヴィッド・クローネンバーグ『ラビッド』、日本の漫画家だと古賀新一、日野日出志、伊藤潤二らに近いグロテスク趣味をもった作家だとも言える。

 しかしガロ系やボディホラーものにはない、繊細でジュブナイルな感性があるのは確かで、その意味では小野耕世の言う通り少年少女を主人公に据えることの多い楳図かずおとの比較がやはり一番的を得ているかもしれない。そう、『ブラックホール』は若者の物語なのである。

70年代を舞台に90年代の感性を描く——ジェネレーションXとの共振

 主人公クリスの親友が「気持ち悪いけどハマってるもの」としてデヴィッド・ボウイの『ダイアモンドの犬』のレコードを取り出すシーンがある。妙に印象に残るコマで、ベルギーのアーティストであるギィ・ペラートがジャケットで描いた、人間と犬のキメラになったボウイのぬめっとしたフリークスの質感にこそ本作の闇の感覚が表れていると小野耕世も語っている。たしかにバーンズはボウイの盟友イギー・ポップの『ブリック・バイ・ブリック』のアルバム・ジャケットを手がけてもいるし、70年代ロックカルチャーとの接続は可能であるだろう。

 しかし70年代中頃という時代設定の本作は、1995年に描き始められたという点に改めて留意しなければならない。つまり前年にカート・コバーンがショットガン自殺した事件を経て描き始められたのであり、そのコバーン率いるニルヴァーナが捲き起こしたグランジ・ムーブメントの中心地こそが本作の舞台、そしてバーンズの育ったシアトルであった。

 実際、ニルヴァーナを含む数々のグランジバンドと契約したサブ・ポップ・レーベルのファンジンにチャールズ・バーンズは幾つかイラストを寄稿しているし、レーベル初期の伝説的コンピレーション『サブ・ポップ200』【図2】のジャケットも手掛けているから、1955年生まれでグランジ世代とは10歳近く離れていながらも、シーンにコミットした人物と言って過言ではないだろう。そもそも『ブラックホール』というタイトルに、グランジを代表するバンドであるサウンドガーデンの「ブラック・ホール・サン」を反響させないで読むほうが難しい気さえする(少なくとも私には)。

図2 V.A., Sub Pop 200 (Sub Pop, 1988). ジャケットはチャールズ・バーンズ。

 要するにジェネレーションXを通過したあとの感性が本作には感じられるのだ。享楽の限りを尽くしたベビーブーマー世代(要するにヒッピー世代)の子供世代にあたり、リバー・フェニックスのような俳優に象徴される世代。「暗く、シニカルで、自己破壊的で、夢もへったくれもない荒んだ精神」というジェネレーションXのステレオタイプを十字架のように担わされたのがカート・コバーンであった。

 55年生まれとベビーブーマー世代後期に属するバーンズは、60年代生まれであるジェネレーションXとは世代的に一回りか二回りほど違っている。このあたりが『ブラックホール』とジェネレーションXを結ぶ付ける評があまり見られない理由かもしれない。それに加えて、いかにも70年代という感じのキャラクターがいることも、バーンズとジェネレーションXとの結びつきを見えづらくしている。例えばクリスの彼氏ロブが聴いてる音楽はエマーソン・レイク&パーマーなど古いプログレであり、「クールな奴がクールを吸う」などまったく気の利いていないおやじギャグが口癖だったりするオールドスクーラーである。

 とはいえ、デイヴという兎口の青年は実に90年代世紀末を予見させるキャラである。拳銃で友人たちを殺しまわったあとに自らを撃ち抜いて自殺する彼は、1999年のコロンバイン高校銃乱射事件の犯人の顛末を思わせる(バーンズの執筆期間にこの事件が含まれることに留意されたい)。スクールカースト最下層であるギーク(おたく)集団に属するチェス大好きのデイヴは、美しい主人公クリスとフランス語の授業で隣り合っていたが、名前すら覚えられていない(正確にはあまりに気持ち悪いので覚えていないフリをされた)。全身黒ずくめで、黒いフードパーカーをかぶり(全身黒はゴスやエモなどスクールカースト最下層を象徴するルックである)、ケンタッキー・フライド・チキンのレジに並んでいるとき絡んできたカップルの男を銃で脅すデイヴの醒めた破壊衝動には、70年代的な乾いたニヒリズムよりも90年代的なダークさとフラジャイル(壊れやすさ、儚さ)を感じる。要するにデイヴは70年代にありながら、既にしてナイン・インチ・ネイルズの『フラジャイル』を聴きながら希死念慮を弄んでそうなタイプなのだ。

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