宮部みゆき『模倣犯』はなぜ映像化が困難なのか? 圧倒的な恐怖を生む“特異な構成”

宮部みゆき『模倣犯』なぜ映像化困難?

 呼吸をするのも忘れるほど恐怖を感じた本は、後にも先にも宮部みゆき氏(以下敬称略)の『模倣犯』(小学館)だけだ。上下巻で1400ページを超える単行本は3部構成となっており、一つの事件を様々な登場人物の視点から語った本作は、絶望と希望と苛立ちが幾重にも折り重なり、読み終わったときには疲労でぐったりした。

 2002年に東宝により映画化、2016年にテレビ東京とテレパックにてドラマ化、最近、Netflixにて台湾がドラマ化しているが、どれも原作の怖さを超えてはいない。心を込めて作った制作者たちには申し訳ないが、小説版『模倣犯』はそれほど飛び抜けた存在であり映像化が難しいのだと思う。それはなぜか? この疑問の答えを見つけるべく、小説版と映像版を比較しながら深掘りしていく。

視点を3つに分けたことで生まれた没入感

 『模倣犯』は、自分に絶対の自信を持つ網川浩一が自分の承認欲求を満たすために犯した劇場型犯罪を描いたミステリーだ。

 網川は、若い女性を誘拐、監禁、暴行し、無惨に殺す。凄惨な連続殺人も、彼にとっては舞台であり、被害者は、自分が作り出した舞台の「女優」なのだ。自分の頭脳と能力があれば、他人の人生を手のひらで転がせると信じており、その全知全能感に幼さと狂気が宿る。読者は彼の独りよがりで他人の心に決して寄り添わない様子に、幾度となく怒りと恐怖を覚えただろう。

 だが、それだけでは単なる猟奇殺人モノになってしまう。『模倣犯』が、他のミステリーと一線を画す恐怖作品になれたのは、網川の事件に関わった被害者、警察、加害者の3つの視点を丁寧すぎるほど丁寧に書いたことで、読者の登場人物への共感を高めたからだと言える。

 特に被害者遺族と加害者遺族の心情を綴った章では、一人一人がどれほど懸命に生きて傷ついているのかがひしひしと伝わってくる。かなりのボリュームを割いて描かれているため、冗長に感じたり、自分が誰についての話を読んでいるのか見失ってしまったりするほど。しかし、流れに任せるように読み進めると、いつの間にかひとりひとりの登場人物が自分の中にしっかりと入り込んで人格を形成していくのがわかる。それはまるで、多重人格者が次から次へと別人格を自分の中に作り出すような作業だ。読んでいくうちに、自分以外の目線でも網川の狂った自己愛を見つめることになるのだ。

 そして、十分に全員の気持ちを理解したタイミングで、クライマックスがやってくる。自分の中に共存する20人ほどの人格全員が事件の行末を見守るのだから、固唾を飲むどころの話ではない。呼吸をするのも忘れてしまったのは、自分の中の、網川を恨むひとりひとりの人格が、その瞬間にさまざまな感情を爆発させたからかもしれない。

映像化が難しいわけ

 小説『模倣犯』を読んだ人なら誰でも、そのオーケストラのように幾重にもなった物語に圧倒されるはずだ。映像化をのぞむのも無理も無い。だが、『模倣犯』は、その特異な構成ゆえに映像化するのが非常にむずかしいのだ。その理由は、尺と主役を選ぶ難しさにあると言えるだろう。

 まず、1400ページを超えるボリュームを2時間の尺にするのは不可能に近い。映画『模倣犯』は123分だが、原作に登場する「女性を拉致監禁していたぶって殺し見せびらかす」不気味さに焦点が当てられており、人物像を掘り下げることなく最後はデウスエクス・マキナ的に強制終了させてしまっている(注:デウスエクス・マキナとは、物語が入り組んで解決困難になってしまったときに神のような絶対権力者が現れて強制的に解決してしまうこと。例:映画『キャビン』、『ブレインデッド』など)。

 2016年のドラマ版『模倣犯』は、限りなく原作に近いストーリー構成で、前後編の約4時間尺。重要なエピソードをほとんど網羅してはいるものの、サラッと進んでいく印象が強いことは否めないだろう。

 先日配信されたNetflixの台湾ドラマ版『模倣犯』は10エピソード構成だが、原作に忠実とは言えず、かなり独自要素を入れていることからあまり比較はできない。ただ、10話もあれば、人物を掘り下げることは可能だ。原作に登場するほどの人数を満遍なく知ることは難しいが、原作を核とした見応えのある作品に仕上がっていた。

 尺の次に映像化を難しくしているのが、主役選びだろう。小説『模倣犯』の犯人は網川浩一だが、網川は物語の途中からしか登場しない。また、事件を中心としてさまざまな人の目線で語られるために、映像化したときに誰にストーリーを語らせるのかを決めるのが難しい。映画版では中居正広演じる網川浩一が、ドラマ版では中谷美紀演じるルポライターの前畑慈子が、台湾ドラマ版では、原作には登場しない検事役が主役となっている。

 原作のクライマックスが震えるほど怖かったのは、群像劇ゆえに関係者の気持ちを全て読者が吸収した上で網川のラストを見守ったからだと書いたが、映像版になると主役が一人に絞られてしまうが故に没入しにくい。そのため、原作で感じるほどの圧倒的な恐怖を楽しめないのだ。

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