文化の日 手塚治虫の誕生日「もしも」の話題が今なお尽きない漫画界の大いなる頂

文化の日手塚治虫の誕生日

 11月3日は文化の日であり、手塚治虫の誕生日である。手塚は昭和3年(1928)11月3日に大阪府豊中町(現在の豊中市)で生まれた。その後、両親とともに兵庫県兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に転居。

 当時の宝塚は新興住宅地であった。宝塚大劇場や宝塚ルナパークなどの娯楽があり、異空間、異世界のような様相を呈していた。そして、手塚の家の近くにはタカラジェンヌが多く住み、周辺には緑が多く、昆虫採集にも適した環境にあった。この宝塚での生活が、のちの手塚の生涯に影響を与えたとされる。

 手塚が昭和21年(1946)、『少国民新聞』大阪版に『マアチャンの日記帳』という4コマ漫画を執筆し、デビューを飾る。翌年には酒井七馬と共作した『新寳島』が大ヒット。新寳島は一説によれば約40万部が売れたともいわれるが、この本を読んで漫画家を志した少年たちは全国に数多い。特に藤子不二雄Aの『まんが道』でたびたび紹介されたことから、一種の手塚神話を生んだ作品といえる。

 さて、手塚の生涯を紐解けば、常に新しいものに挑戦し続けた人生であった。昭和28年(1953)に『少女クラブ』で連載した『リボンの騎士』は、日本の少女漫画の先駆けとなった。昭和34年(1959)には、日本初の週刊少年漫画雑誌となった『週刊少年サンデー』の創刊号から、『スリル博士』の連載を開始。そして、昭和38年(1963)には、これまた日本初となる毎週30分枠のテレビアニメーション『鉄腕アトム』の放送を開始している。

 こうした手塚の創作意欲を支えたのは、どんなにヒット作家となった後も、新人に目配りをし、時には対抗心を燃やし続けていたことにもあった。水木しげるの妖怪漫画に対抗して、妖怪をテーマにした『どろろ』を描いたことはあまりに有名である。また、昭和41年(1966)には自ら実験漫画雑誌『COM』を創刊し、当時流行していた『ガロ』や劇画に対抗した。そして『COM』で石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の『ジュン』が実験的な手法で話題になると、石森の漫画を批判する手紙を自身のファンに送り(後に謝罪)、晩年にも大友克洋をライバル視していたという逸話もある。

 手塚のライバル心は生涯衰えることはなかった。ある意味、手塚ほど分け隔てなく、対等に漫画家と付き合おうとした人物はいないかもしれない。

 しばし、ネットで話題になるのは、「もし現代に手塚が生きていたらどんな漫画を描いていただろう?」というテーマだ。おそらく手塚はVTuberにも関心を持っていただろうし、自らYouTubeで創作風景を動画配信していただろう。そして、AIを真っ先に使いこなして漫画を描いていたのではないか。もちろん「日本初」を目指して取り組んでいたはずである。こうした「もしも」の話題が今なお尽きないことも、手塚の大きな魅力と言えるし、その偉大さの証明といえるかもしれない。

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