窪 美澄「コロナ禍であろうと人は恋をしたいし、するもの」 直木賞受賞作『夜に星を放つ』に込めた願い

窪 美澄『夜に星を放つ』インタビュー

境界線が滲んでいる家族の姿を書きたい

――1編目「真夜中のアボカド」にも、タイトルどおり、一行目からアボカドが登場しますしね。

窪:ああ、それは、私も主人公と同様、コロナ禍の自粛期間中に、アボカドを種から育ててみたんですよ。仕事柄、孤独には強いし、もともと息子も自立して一人暮らしだったから、自粛期間も問題なく耐えられると思っていたんですが、友達ともLINEはするけど電話はそんなにしなかったりして、あれほど長く誰ともしゃべらない・会わないが続くと、さすがにしんどくなってしまったんですよね。何かを育ててみたいという気持ちがむくむくと湧いてきたものの、猫みたいにお互い依存性が高い存在を得ることには抵抗がある。どうしようか、と思っていたときに、キッチンの流しに大きなアボカドの種が転がっているのが目に入ったんです。で、ふと、そういえば育ててみたら芽が出るって誰かが言っていたな、と。

――出たんですか?

窪:三個に一個くらいしか発芽しない、という前情報どおり、三回目に成功しました。それからは、アボカドが成長するのを見るのが、心の支えで。どんなに一人でいることに慣れている人も、世界と隔絶されたように感じる孤独は、やっぱりつらい。けれどその孤独も、アボカドでもいいから、生きている何かが同じ部屋にいてくれることで、少しは癒されていく。そんな私の実感も、少し、投影されています。

――その孤独が、マッチングアプリで出会った恋人との距離を縮め、30歳を前に亡くなった双子の妹の婚約者との関係も微妙に変化させていく、その感触もすごくリアルで、性格も生活も全然ちがうのに、彼女に心を寄せながら読んでしまいました。

窪:実際、年下の友人たちが何人か、コロナ禍でマッチングアプリを始めていて。こんなときに知らない人と出会うのは怖くないのか、と思ったものの、コロナ禍であろうと人は恋をしたいし、するものなんですよね。それはもうしかたがないことだな、と思います。

――コロナ以前から、妹の死を抱きながら生きていた彼女の〈何があっても、どんなことがあっても、生きていかなくちゃ〉という言葉も、沁みました。4編目の「湿りの海」にも〈それでも、行かなくちゃ〉というセリフがありましたが、「何があっても明日へ」という想いは窪さんのなかに強くあるものなのでしょうか。

窪:そうですね。私、昔からけっこう、ショッキングな出来事に遭遇することが多くて。なかでも、第一子を生んですぐ亡くしてしまったことは、相当大きな出来事として胸に刻まれていますが、どんなに悲しくても、理不尽に打ちひしがれていても、生きている限りは、前に進まないといけないんですよね。そのための逞しさを身につけざるをえなかったし、あともう一日生きていれば大金星だと自分に言い聞かせながら、歩んできた人生でした。このコロナ禍で、かけがえのない人を亡くした人もいるでしょうし、自死する方が増えているように、先の見えない孤独や苦しみのなかで、何もかもがめんどくさくなってしまった人も、いるでしょう。それでも、自分で自分の命をなくすことだけはやめよう、と私は言いたいのです。遠い未来を考えるのではなく、たった一日という短いスパンを、生まれ変わるつもりで新しく重ねていくことで、何年か先まで生きることができるんじゃないか。これまでの作品でもこめてきたその想いは、今作にも描かれていると思います。

――だからといって、前向きに背中を押すばかりではないのが、窪さんの小説を読んで救われるところだなと思います。綾は最後まで孤独を手放せるわけではないし、「湿りの海」で、別れた妻と娘がアリゾナに行ってしまった孤独を抱える主人公も、どちらかというと人生が停滞したまま、周囲からも取り残されたまま。でも、それでもいいのだ、と肯定してもらえるような気がして。

窪:ありがとうございます。書く側の意図としては、まさにおっしゃっていただいたことに近いですね。「湿りの海」というのは、天文系の画集で見つけた、実在する絵なんですけれど、月の表面にある円形の海のことでもあるんです。月の、照らされて初めて輝くことができる感じと、光の当たらない裏側のひっそりとした感じ……その寂しさと切なさに似たものが、この主人公には溢れかえっているんじゃないかなと思いました。寂しさを誰かにわかってもらいたいという弱さみたいなものもあれば、自分の本来持っている優しさを誰かに分け与えたいという本能みたいなものもある。隣に越してきたシングルマザーと疑似家族を演じることで満足しようとするのは、ズルいと思うひともいるかもしれないけれど、そう言う男性の姿を描いてみたかったんです。

――本作に登場する家族は、死別や離別、単身赴任など、離れて暮らしていることが多く、誰かと疑似の形で家族になろうとする姿も、たびたび描かれますよね。

窪:境界線が滲んでいる家族の姿をみると、ああ、書きたいなあと思うんです。それがいいとか悪いとかではなく、ただ「こういう家族も在る」のだということを。だから、たとえば政府の指針とかで、両親が揃っていて、子どもが二人いて、それが正しい家族のかたちだと言われると、反発心が湧きますね。私自身、息子をひとりで育てていましたし、同性のカップルも、血の繋がらないお子さんを迎えて育てている家庭も、お互いを慈しんで生活していればそれはもう、家族と言っていいんじゃないですか、と。遠い身内より近くの他人という言葉もあるとおり、私も、自分に何かあったときには年老いた母親より、年若い友人のほうが親身になってくれるでしょうし、一緒に暮らしていないから厳密には家族じゃないけど、家族と同じくらい意味のある存在のことは、やっぱり家族と呼んでもいいんじゃないか、とも思っています。だから私の書く家族は、一般的にはメンバーが欠けているように見える状態が起点になることが多いんです。

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