現代史家・大木毅に訊く、戦争の記憶を辿る意義 「今日にあって明日を考えるためには、昨日を知っておく必要がある」

大木毅が語る、人間と戦争

 日本の翻訳文化は、かつて豊かな土壌を誇っていた。世界の古典はもちろん、最新の文学作品、ノンフィクションや研究書がほぼオンタイムで翻訳され、普通の書店で入手できる……。昭和30年代から50年代ごろにかけては、それが当たり前だった。が、時代が降るとともに翻訳書籍の出版点数は減少し、現在では絶版となった過去の翻訳書籍を読むことすら難しくなっている。

ルイ・アレン『日本軍が銃をおいた日』(早川書房)

 そんな状況に一石を投じようと、早川書房が戦争を題材としたノンフィクションの名作を収録した叢書を刊行する。8月から刊行される「人間と戦争」シリーズだ。監修に『独ソ戦』など第二次世界大戦を題材とした著書で知られる大木毅氏を迎え、現在入手困難となっている戦争をテーマとしたノンフィクションのなかから今日なお読む価値のある作品を選定、専門家による訳文・訳語の再検討を行い、詳細な訳註や解説を付して、現代の読者に提示する試みである。

 アジア太平洋の各地に展開していた日本軍が、1945年8月15日以降どのように降伏していったかを描いたルイ・アレンの『日本軍が銃をおいた日』を8月に刊行。続いて、危険なドイツ本土空襲作戦に携わったアメリカ軍爆撃部隊将兵の苦闘を記録した『ワイルド・ブルー』を9月に、第二次世界大戦末期に遂行されたドイツ軍の大反攻を描いた『バルジ大作戦』を10月に刊行する予定となっている。

 翻訳書籍を数多く出版してきた早川書房の本はもとより、以前は他社から出版されていたものも含めて「人間と戦争」というテーマに沿った作品を収録するという、このシリーズ、はたしてその企画意図はどこにあるのか。そして、今、あらためて過去の名作を読み直す意味は? 

 シリーズ監修を務める大木毅氏に、話をうかがってみた。(しげる)

復刻する価値や意味のあるものがたくさんある

──翻訳図書の現状を、大木さんはどのように見ていますか?

大木毅(以下、大木):戦争や軍隊を扱った書籍や雑誌記事の分野に限らず、翻訳出版全般に採算が取れなくなりつつありますね。原著者への前払い金や訳者に支払う印税などのコストに見合わない売り上げしか立たず、ビジネスとして成り立たなくなりかけているのが現状だと思います。よって、本来ならば翻訳されてしかるべきものも出版されない。元アメリカ大統領の回想録とか、よほど話題になるような本でもなければ、翻訳出版が難しくなっている。その結果、日本は、ガラパゴス状態とはいわないまでも、訳されるべきものが訳されず、出版されるべきものが出版されない……という状態になっているといわざるを得ない。

──海外での進展から取り残されるような状況になっているわけですね。

大木:こうした市場や版権取得料など、困難は大きくなるばかりで、ここ30年ほどの間に海外で出た、これは訳されるべきだろうというような本も、日本では、その多くが出版されていない。その一方で、かつて翻訳文化が栄えていた時代に出版されて、残念ながら現在は品切れ重版未定で手に入らない名作もたくさんある。今すぐ新刊の翻訳を強化するのは難しいとしても、これらをなんとかできないか。そう考えたのが、「人間と戦争」を企画した端緒です。

──いちから新しい書籍を訳すのではなく、まずは埋没している名著を発掘しようという発想ですね。

大木:こうした作品のなかには、訳書の存在が忘れ去られているものも少なくありません。古典的なもので言えば、コーネリアス・ライアンの『遙かなる橋』であるとか……。また、今回の第一期配本に含まれているルイ・アレンの『日本軍が銃をおいた日』も知られていない。当然のことながら、新世代の読者はそういった訳書に触れられないまま、放っておかれている。それならば、まずはここから手をつけるべきだろうという判断でした。新しいことを始める前に、大いなる遺産を活用する方が容易であるし、逆に言えば、そこからまた始めなくてはならないだろうという認識です。

──この企画がスタートしたのはいつ頃からでしょうか。

大木:去年の10月ごろからです。早川書房から別のお仕事のオファーをいただいたのですが、その話自体はスケジュール調整がうまくいかなかった。ただ、その際に、かねて考えていた復刊企画について提案したのがきっかけです。早川書房といえば、日本の翻訳文化の一方の雄ですから、過去に出して絶版になっている図書のなかには、復刻する価値や意味のあるものがたくさんある。これを今日の読者に受け入れられるような形で復刊するのはいかがでしょうか、と。

──すでにその時点で、今回のシリーズのコンセプトはほぼ完成していたわけですね。

大木:対象になった作品の多くは、今見てもこなれていてわかりやすい訳文なので、基本的には依拠できるクオリティである。ただ、当時は固まっていなかった訳語が、その後、こう訳すという定訳ができたという言葉などもありますし、ほかにも、今はこう訳さないといったところがみられる。そういった点は、それぞれのテーマの専門家にチェックと修正をお願いしたいと思いました。加えて、その本が研究の進展の上で、いかなる位置にあり、どんな価値があるのか。それが刊行されてから、どのように研究が進んだのか、かかる進歩にかかわらず、なお復刊する意味はどこにあるのかといったことを解説してもらう。このような手間暇をかけて出版すれば、今日の読者にも需要があるのではないか。

 そう提案したところ、「ぜひやりたい」と早川書房のご快諾をいただきました。以後、準備を進めて今夏の発刊に至ったわけです。

──「人間と戦争」というテーマは、どのように決まったのでしょうか。

大木:ひとつには、派手な戦いや兵器を扱ったミリタリー本の狭い世界でのみ受け入れられるものではなく、もっと広い範囲の読者にとっても興味深いシリーズにしようというコンセプトからです。ご存じのように、日本と日本をめぐる情勢は変わり、不幸なことですが、戦争や軍隊といったことから眼をそむけてはいられなくなっています。そういう時代にあって、人間の抱えている宿痾(しゅくあ)ともいうべき「戦争」とは何なのか、どのように向き合っていかねばならぬのか、という問いかけの手がかりになる書籍を選ぼうと思っていました。それに対して、早川書房の編集部が「では、シリーズタイトルは『人間と戦争』でいきましょう」と提案してくれました。

──そういったコンセプトの策定に加えて、選書も大木さんが行っているんですね。

大木:セレクションも私がやっております。選定の基準として、ひとまず第二次世界大戦を扱った書籍に限っています。古代から中世、近世・近代の戦争もということになると、拡散しすぎてしまいますので。それゆえ最初は、人類が経験した最大の戦争である第二次世界大戦に集中しようと思ったのです。また、なるべく、日本軍とその戦いを扱ったものも入れようと決めていました。もちろん、日本人が日本の軍隊と戦争を論述した本は無数にありますが、せっかく翻訳書籍を復刊しようというのですから、「外国人の目からは、このようにこう見える」という視座がほしい。その意味で、一期3冊のうち1冊ないしは2冊は日本軍に関係する、アジア太平洋の戦いについて書かれた書籍を入れようと考えました。

──8月刊行の『日本軍が銃をおいた日』がそれですね。ただ、第一弾の3冊のうちの1冊である『ワイルド・ブルー』は元々アスペクト社から刊行されていた書籍です。こういった早川書房から出された本以外のものも収められているのは、大木さんの考えからでしょうか?

大木:これについては早川書房からの希望もありました。というのは、ひとつには早川がいかに多数の翻訳書を出していたとしても、それだけではいつかは数が切れてしまうという理由からです。さらに、早川で刊行したもの以外にもいい本はたくさんありますから、そういったものもできれば取り入れたいし、それによって可能性が大きく広がる。そういうご意向でした。そこで、第一期3冊のうちに『ワイルド・ブルー』を入れました。

──『バルジ大作戦』を選んだ理由はどういったところからでしょうか?

大木:まあ。四番打者は要るだろうということですね(笑)。テーマも知名度が高い。また、オールドファンにも、かつて夢中になって読んだという方が少なくない。若い世代も、読んだことはなくとも、書名は知っていて、しかし、手に入らない。これは出すべきだろうと思いました。

 ただ、こうしてお話ししていると、第一期3冊がすんなり決まったように思われるかもしれませんけれど、そうではありません。候補を挙げた後に「これはやりたいけど版権が取れない」、あるいは訳者の著作権継承者が見つからないというような紆余曲折があって、現在の3冊に落ちついています。

一ノ瀬(早川書房の担当編集):版権取得の難易度は、ものによってさまざまですね。今回、著者が亡くなっているケースも多いので、現地のエージェントにご遺族を捜索してもらったりもしました。また、以前に弊社から刊行していた本であっても、版権を取り扱う海外エージェントが当時とは変わっていて予想外に難航することも。逆に、他社さんから出ていた本だからといって必ずしも難易度が高いわけでもなく、すでに版権が返却されていればあとは通常の版権交渉なので、スムーズに運ぶ場合もある。ただ、いずれにしてももう一度同じものを出版しても仕方ないので、今の世の中に改めてアピールするということをあらゆる点で考える必要がありました。

──それは具体的にどのような点でしょうか。

一ノ瀬:まず訳文を全面的に見直しています。各巻、専門家の方に入っていただいて、監訳作業をしていただきました。例えば『日本軍が銃をおいた日』は半世紀近く前に出版された本で、原書と同じ年にスピード出版されたものです。ゆえに今読み直すと少々意味が取りづらい部分もあるので、基本的には元の翻訳を尊重しつつ、監訳をお頼みした岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授の笠井亮平先生にご尽力いただき相応の改訂を加えています。この作業はシリーズ全ての本で行う予定です。また、「人間と戦争」というコンセプトを装幀やキャッチコピーでいかに表現するか、かつて出版した書籍をこの時代にもう一度出版し直すことの意義を考えながら進めています。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「著者」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる