写真家・笠井爾示が振り返る、被写体としての母親とドイツでの日々「ジメっとしたメッセージ性を持たせたくなかった」

笠井爾示『Stuttgart』インタビュー

 2021年11月に開催された世界最大の国際写真フェア・PARIS PHOTO(パリフォト)での発表を経て、今年1月25日に日本で発売された写真家・笠井爾示の最新写真集『Stuttgart』(bookshop M)。

 写真集のタイトルになっている「Stuttgart(シュトゥットガルト)」は、ドイツ南西部に位置する工業都市。かつて笠井爾示が家族とともに暮らし、家族が日本に帰国した後も、ひとり10代後半を過ごした街だ。明るい黄色のカバーに包まれた本作は、久々に家族総出で訪れたというその地で撮られた母・久子さんの写真で構成されている。

 舞踏家・振付家の笠井叡を父に持つ笠井爾示は、両親を「お父さん」「お母さん」ではなく「叡さん」「久子さん」と名前で呼んでいるそうだ。家族旅行と母の写真。そして、父・叡の稽古場である天使館で開かれた写真展。本インタビューでは、本作制作の流れとともに、家族との関係性についても聞いてみた。(とり)

『Stuttgart』誕生まで

笠井爾示氏

――改めて、ご家族みんなでドイツ・シュトゥットガルトに行かれた経緯を教えてください。

笠井:詳しくは本作の巻末に書いてありますが、かれこれ1~2年ほど前から「家族全員でシュトゥットガルトに行きたいね」って話をしていたんですよ。僕が言い出しっぺだったのかな。その辺はあまり正確に覚えていませんが、親も高齢だし、何となくそういう雰囲気があったのは事実で。ただ、僕含め、みんなフリーで仕事をしている人たちだから、予定を立ててもリスケ続きで、なかなかスケジュールが合わなかったんですよね。半ば強引に、仕事が入っても断るつもりで、2019年7月の終わりから8月頭にかけての12日間で調整して。今になって思うと、コロナになる前に行けて本当に良かったですね。

――そこで、母・久子さんを撮ろうと思ったのは?

笠井:ふとした思いつきがきっかけでした。写真集にしようとか、ヌードを撮ろうとか、具体的なことは全く想像していませんでしたが、僕自身、母親ないし身内を撮る意識は、10~15年前から頭の片隅にずっとあったんですよ。それは、今後一切撮らないとか、いつかは絶対撮らなきゃいけないとかではなく、もっと漠然としたもので。「写真家として、いつかは親の写真を撮るべきなんだろうか」と自問自答しては、あえて線引きしていた対象でもあったんですよね。

 基本的に僕が撮る題材は、身近な人や日常に近い風景がほとんど。それでいうと家族は、身近どころか、もっと内なる存在です。特に久子さんを撮るとなると、“息子から見た母親”という絶対的な関係性のなかで、リウマチで関節が曲がった体と向き合う必要があります。でも僕としては、「リウマチを患っている僕の母親」みたいな、ジメっとしたメッセージ性を持たせた写真にはしたくなかった。と、これらは全て感覚的に思っていたことで。今、改めて言葉にしてはいるものの、実家という日常的な風景のなかで親を撮る発想すらなかったです。それが、家族でシュトゥットガルトに行くと決まったとき、普段と違う環境で撮ってみたら面白いんじゃないかと、直感的に思ったんですよね。

――実際に久子さんを撮っているときは、どんな感覚でしたか?

笠井:わりと淡々としていましたよ。もちろん、母親を撮っている意識はありましたが、“満を待して、思い出の場所で母親と向き合っている”みたいな感覚は一切なかったですね。そもそも僕は、全ての写真が作品になり得ると思って、日々写真を撮っています。現地では、久子さん以外の家族や風景も撮っていましたけど、久子さんを撮るときだけ、特別な意識を向けることは、やはりなかったですね。

――では、どのタイミングで写真集にしようと?

笠井:帰国して、撮った写真を見返したときですね。久子さんの写真だけをバーっと並べてみたら、何となく一冊にまとめた方がいいような気がしたんです。同時に、写真集の装丁をお願いするなら、マッチアンドカンパニーの町口覚しかいないな、とも。

 僕と町口は、いわゆる腐れ縁の仲。一緒に仕事をすることもあれば、飲みに行くこともある間柄です。何なら、叡さんの本をデザインしたり、弟たちの舞踏公演のポスターを作ったりもしているから、僕以上に笠井家と繋がっている人物かもしれないですね(笑)。

 そんな町口にシュトゥットガルトで撮った久子さんの写真を見せたら、「すぐにまとめよう」って話になって。一緒に写真集を作るのは、2001年に出版された『波珠』(青幻舎)以来、20年ぶり。お互いに、いずれまた何かを一緒に作るだろうと思ってはいましたが、本作はまさに絶好の機会でしたね。

――笠井家のことをよく知る町口さんだからこそ、お願いできた部分もあったと。その後は、どのように制作が進んでいったんでしょう?

笠井:最初は、トントン拍子で話が進んでいきました。特別凝った編集はせずに、写真の並びも時系列でいいと思っていたので、これまで10作の写真集を出してきた経験から、3ヶ月くらいでサッと完成するんじゃないかと予想していたほどです。

 ただ、2020年にコロナが流行り出した影響で、ことごとく計画が白紙になってしまったんですよね。まぁ、世界レベルの話ですし、僕個人が足掻いてどうこうできる問題ではないじゃないですか。年を跨げば状況も落ち着くだろうと、その1年間は静観するほかなかったですね。とはいえ、2021年になっても状況は変わらず。こうなったら、できる範囲でやるしかないんじゃないかと、再び計画が動きはじめて、昨年の10月、ようやく本作が完成しました。当初は3ヶ月で仕上がるはずだったのに、実質2年もかかりましたよ。体感的には、すごく長い時間でした。

――本作の写真展を、一般的なギャラリーではなく、天使館(笠井氏の実家の隣にある叡さんの稽古場)で開催されたのも、コロナの影響でしょうか?

笠井:そうですね。本当は、写真集を出した記念じゃなく、もっと本格的に大規模な写真展を開こうって話で、キュレーター(展覧会の企画や運営を行う専門管理職)を交えた写真展チームも作っていたんですよ。でも、仮にギャラリーをおさえられたとしても、いつ状況が悪化するか分からないし、開催目前で流れる可能性も十分あり得たから、自分たちで何かできないだろうかと、改めてチームで話していたんですね。そしたら、キュレーターの方から「天使館でやるのはどう?」と提案があって。万が一、直前で開催が危ぶまれたとしても、身内の空間だから大きな損害にならないし、いいんじゃないかと。

 僕としては、全く実感が湧きませんでしたよ。いくら身内の空間とはいっても、舞踏の稽古場である天使館は、写真をやっている僕の領域ではないと感じていたし、わざわざ国分寺駅から15分も歩いて、誰が写真を見に来るんだとも思いましたしね。

――会期中、私も天使館に行かせていただきましたが、久子さんの写真を感じるのにうってつけの空間だと思いましたよ。決して広くはない稽古場に、大きくプリントされた久子さんの写真が静かに置かれてあって。写真を展示するための場所ではないからこその独特な見せ方によって、写真集を見たときとは違った余韻がありました。

笠井:そうそう。やってみると、意外に良かったんですよ。「せっかくだから」と家族みんな積極的に参加してくれて、トークやダンスのイベントまで開催しちゃって。写真展でありながら、完全に笠井家のフェスになっていましたよね(笑)。

 アクセスの悪さを懸念していたものの、駅から歩く分、お客さんも「写真を見に行くぞ」って気持ちになれたようで。普段、写真展をやっても音沙汰ないような知り合いまで、いろんな方が来てくれました。10日弱の会期で、来場者はおよそ400人。都心のギャラリーで開催しても、なかなか400人も来ないので、正直驚きました。どうなることかと思いましたけど、結果的に、いい展示になりましたね。

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