日本の思想はどんな問題と向き合ってきたか? 『日本思想史』著者が語る、王権と神仏で捉え直す通史

『日本思想史』著者インタビュー

 日本では古代から現代まで、それぞれの時代に課題や問題があり、それに向き合い生き方を模索してきた。1月21日に刊行された『日本思想史』(岩波書店)は、「王権」と「神仏」という二極構造から、日本の思想の道筋を捉え直したものだ。今回、著者である仏教学者の末木文美士氏に執筆に至った経緯から、通史を振り返るに当たって参考になる思想書を紹介してもらった(編集部)

それぞれの時代の問題意識は共通していた

――本書『日本思想史』執筆の理由を改めて教えてください。

末木:私自身、もともと日本の思想に対する哲学的な関心、あるいは宗教への関心から出発しているのですが、そうすると海外から輸入した概念が必ずしも通用しない場合が多いんです。“哲学”や“宗教”という言葉にしても、英語を翻訳する際に生まれたもので、日本のそれとは違う本来的な意味やイメージがあります。

 つまり日本には独自の思想の流れがあり、仏教であれ儒教であれ、ヨーロッパ的な概念で切り取ることは非常に難しい。ヨーロッパ的な学問から見ると、日本人のものの考え方は非合理的で、何でもかんでもごっちゃになっていると見られがちなのですが、その中にもきちんとした流れがあり、その時代の問題意識があったわけです。ただ、それを今ある図式の中で考えようとすると、なかなか難しいところがあるので、大きなひとつの流れとしてまとめようと試みたのが本書です。

――仏教や儒教などにあった個別の流れを、より大きな枠組みで捉え直すイメージでしょうか。

末木:そうですね。仏教をはじめ、日本にはいろいろな思想がありますが、それらはバラバラで統一性があるとは考えられていない。たしかに、たとえば江戸時代頃のものを読めば、仏教は仏教独自の概念を使って話を進めていて、一方で儒教は儒教の筋道で話をしているため、一見するとお互い共通するものがないように見える。しかし、それぞれの時代の問題意識は共通していたのではないかと思います。

――現代に置き換えるとわかりやすいかもしれません。仏教もキリスト教も、それぞれ別個に存在しつつも、同時代的な問題意識は間違いなく共通しています。

末木:まさにそうです。今の時代だって、仏教の人は仏教の言葉で考えるし、キリスト教の人はキリスト教の言葉で、哲学の人は哲学の筋道で考えます。みんなバラバラですが、そこには同時代的な問題意識の共通性が当然あるはずです。それこそ、震災の被害者の慰霊をどうするのか、あるいは今だったら新型コロナの流行に対して、それぞれの立場で何が言えるのか?ということです。

 同じように、それぞれの時代においても、共通する時代的な問題意識のベースがあるのではないかと。そこで今回、私が考えたのが“王権”と“神仏”という2つの極です。それを両極に置いてみると、いろんなことが整理されて見えるのではないかと考えました。たとえば中世あたりで考えると、常に天皇がどういう状態にあるのかという問題があり、その後、将軍が出てきたときには天皇とどう関わるかという問題があるわけです。

――いわゆる“権力”の問題ですね。

末木:はい。その一方で、世俗的な意味で非常に大きい権力を持ったお寺や神社があります。日本人の根本には、仏教や神道の世界観が強くあるわけです。簡単に言ったら、「悪いことをしたら地獄に落ちる」とか「バチが当たる」とか、そういう世界観が、人々の世俗的な活動をセーブする力として働いている。言わば世俗に対して、超世俗みたいな形で働いてくるのが“神仏”なんです。だから、人間の活動を制約していく2つの大きな力として、“王権”と“神仏”が両極にあり、その中に人々の文化活動や生活がある、という構造になっているのではないかと。

――本書で提示されている“大伝統”の構図ですね。

末木:そうです。今までの歴史観では、たとえば平安時代であれば貴族の時代であり、それが鎌倉時代になると武士の時代になるといったように、支配階層が変わるような形で捉えられていました。あるいは、中世は仏教の時代だけど、江戸時代は儒教の時代であるといったように。そうすると時代によってすべてがコロッと変わり、一貫性がないように見えてしまうのですが、実際には一貫した“流れ”があります。それを持続しながら人々はものを考えたり、いろいろな問題を扱ってきたのではないかと考えると、いろんなことの道筋が見えやすくなります。

大伝統の構図

――実際、“王権”と“神仏”のバランスの中で、日本の思想の流れを捉え直すという見立ては、非常に新鮮かつわかりやすかったです。

末木:日本にはいろんな思想がそれぞれ別個にあって、ある意味カオスのように語られることが海外ではよくあります。たとえば、日本のお弁当って海外のランチボックスなどと比べると、まさしく幕の内弁当的にいろんなおかずがいっぱい入っていたりして、一見すると雑多に思える。でも、お弁当としてのバランスはちゃんと取れています。それと同じように、日本の思想も一見無秩序のようではあるけれど、その中での秩序や構造があるので、それを読み解いていこうとしました。ただ、注意しなくてはいけないのは、特に明治になってからは伝統そのものの作り変えがなされているということです。

――明治維新によって“王権”と“神仏”という両極が崩壊し、“天皇”という存在に一元化されていく。本書で言うところの“中伝統”の構造ですね。

末木:はい。今、日本に住む我々が常識的に考えているようなものごとの見方や語り口は、ほぼ明治になって作られたものです。だから、必ずしも昔からそのままの形であるわけではない。逆に言うと、そういう変化の中で私たちのものの考え方は作り変えられてきました。それは決して明治以後が悪いということではない。権力を一元化して中央集権体制を作ることで、日本は近代化を成し遂げることができたのですから。ただ、その経緯を冷静に見ると“大伝統”が“中伝統”へと作り変えられているので、それは自覚すべきかと。明治以降に作られた伝統が、あたかも日本古来の伝統であるかのように考えるのは誤りなので。

中伝統の構図

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