松井玲奈は小説家としてどう成長した? 恋愛小説集『累々』を読み解く
なかでも、女性の桃を食べる姿を偏愛する男と彼の妻が交互に語り手となる「完熟」を書いた経験が、『累々』に活かされているように思う。変わった性癖を持つ夫とつきあわされる妻。そのことについて相手には互いに話さないまま、実は内心で思っていることが交代で綴られる。妻はこうも語っていた。「分かり合えること、分かり合えないこと。答え合わせするようにすり合わせていくのには限界がある」。
『累々』でも語り手がパートごとに代わっていく。「1 小夜」、「4 ちぃ」、「5 小夜」では章題になった女性が、「2 パンちゃん」、「3 ユイ」では呼び名の女性とつきあう男性が語る。各章のなかで登場人物同士が意識のズレを覚(さと)るだけでなく、登場人物のほとんどが気づいていないズレを、章と章の関連性によって読者が知る構成である。「完熟」で試みた技法を発展させて『累々』が作られているのだ。
『カモフラージュ』では、彼のための弁当、ジャム、桃、手作り餃子などの食が、登場人物の心理や性癖を表現することと結びつき効果をあげていた。『累々』では本の表紙、裏表紙にそれぞれ描かれたパンダ、バベルの塔のイメージが複数の章にまたがって登場する。それらは、連作全体の主人公になにが起こり、本人はどう感じているかを読者に想像させるうえで大きな働きをしている。
また、「2 パンちゃん」の語り手となる獣医は以前、犬や猫の去勢手術をするごとに自分のものが切られる悪夢を見ていた。悪夢が解消されてからは去勢手術後に強い性欲に悩まされるようになり、パンちゃんとセフレ関係になった設定だ。それに対し「4 ちぃ」では、一方的な想いをつのらせる美大生の語り手が、「ハジメ先輩の体のパーツをバラバラにして作品を作り上げたら、一体いくつ完成できるだろうか」と考える。彼女は、先輩の唇を再現したモザイクアートの制作に没頭していく。体の断片化、恋と性欲という点で「2 パンちゃん」の去勢手術と「4 ちぃ」のモザイクアートは、ある種の対比になっていて響きあう。
著者の松井玲奈は今年1月12日にYouTubeチャンネルを開設しており、1月23日投稿の動画「【松井玲奈】2冊目の小説を発売!【重版出来】」では『累々』をどのように生み出したかを本人が話している。そこでは、編集者とのやりとり、創作ノートも明かしており、丁寧に書かたことがうかがわれる。
よく想を練った構成により、人のいじらしさ、愛おしさ、怖さなど多面性がみえてくる作品だ。読む途中で、こんな人間がいるだろうかと感じても、私たちはしばしば他人の意外な面に接して絶句してしまうものだと思い出させる展開をみせられ、やっぱりいるかもしれないという気持ちになる。
作者が女優であるから、本人出演でこの小説を映像化したらどうかと想像してしまう。語り手の内面に入りこむだけでなく、俯瞰的、客観的に、あるいはすぐ脇から愛おしげに、時には皮肉っぽく主人公を見つめている。作者はそのような存在だから、必ずしも主演でなく脇役に登場するのでも面白い気がする。
短編集だった『カモフラージュ』から連作形式で1つの構図を作り上げた『累々』へ、小説家・松井玲奈は大きな成長をみせた。いずれ発表されるはずの長編が楽しみだ。
■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『ディストピア・フィクション論』(作品社)、『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(リットーミュージック)、『戦後サブカル年代記』(青土社)など。
■書籍情報
『累々』
著者:松井玲奈
出版社:集英社
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