世の中の複雑さにどう向き合うべきか? 武田砂鉄『わかりやすさの罪』の問いかけ
表紙をめくると、カバーの裏のところに「次々と玄関先に情報がやってくるから、顧客が偉そうになった。わかりやすさの妄信、あるいは猛進が、私たちの社会にどのような影響を及ぼしているのだろうか」とある。
“〇分でわかる”という煽りが踊るハウトゥ本やビジネス本が売れ、断定口調でバッタバッタと世相を切るコメンテーターが重宝され、映画、音楽、小説なども“泣ける”“笑える”“盛り上がれる”とあらかじめ感想まで決められてるような世の中は少々おかしくないですか? “わかりやすさ”ばかりが増えすぎて、そこから零れ落ちるものがないがしろにされてはないですか? むしろそこにこそ、大切なことがあるはずなのに……と、本の内容を簡単にまとめられることをきっぱりと拒否しているのが、武田砂鉄の新刊『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)だ。
小さなノイズや違和感を逃さないしつこさ
巻末の「おわりに コロナ禍の『わかりやすさの中で』」の最後にある「ただ、とにかく、提供される「わかりやすさ」から離れ、自分で考えることを徹底してみたのだ」という一節が示す通り、この著作のなかで武田氏は“わかりやすさ”に潜むヤバさを時間と手間をかけて掘り出し続けている。
テレビ番組でたまたま見た「一家の財布は夫が握るべきか、妻が握るべきか」というアンケートから、そもそもこの問いの立て方はどうなのか?と疑問を抱きつつ論を展開し(1「どっちですか?」の危うさ)、「おっしゃる通りだと思います」という便利ワードをもとにして、都合のいい(浅はかな)理解によってむしろコミュニケーション不全を起こしていることを指摘し(5「勝手に理解しないで」)、複雑な感情を抱えることに耐えられず、(経済的な成功などの)一方的・限定的な基準だけで他者をジャッジする人たちに対する疑問を呈する(22「自分に迷わない人たち」)。
私は武田氏のこれまでの著作も大いに共感しながら読んでいたし、彼がパーソナリティをつとめるラジオ番組『ACTION』(TBSラジオ/武田氏は金曜日を担当)における現政権に対するユーモアと皮肉が混ざった批評も好んで聴いているので、本作「わかりやすさの罪」も溜飲を下げながら読めると思っていたのだが、その通り!と気持ちよく膝を打つというより、“これってそもそも…”と多面的・多角的に曲がりくねる論旨を追っているうちに、ぼんやりと納得はしながらも、「めんどくせえな!」と『池袋ウエストゲートパーク』のマコト(長瀬智也)のように叫びたくなる(すいません、STAYHOME期間中にIWGPを見直しました)こともしばしば。
普通の人がスーッと通り過ぎてしまうところで立ち止まり、“ちょっと待てよ。これって……”と時間と手間をかけて黙考し、その思考の道筋を記してきた武田氏だが、小さなノイズや違和感を逃さないしつこさは、この本でさらに凄みを増している。それはまるで、「〈ストーンズ派〉とか〈ビートルズ派〉とか言うけど、どっちも好きだった。あえて訊かれたら、デイヴ・クラーク・ファイブ」と言った大瀧詠一のようなめんどくささだ。
世の中は複雑で、どんな出来事にも数えきれないほどの要因が絡み合っている。クリアに「それってこうだ」と言語化する人は、世の中の複雑さに耐えらず、物事を強引に簡素化しているにすぎず、当然そこには零れ落ちてしまう“大切な何かが”あるはずだという話には完全に共感するが(私自身、子供のときから現在に至るまで、“ごちゃごちゃ言ってないで、はっきりしろ”と言い続けられているので)、『わかりやすさの罪』を読んだ後に浮かんだ感想は、「どうして、これほどまでに“わかりやすさ”を求める人が増え続けるのか」ということだった。
冒頭で引用させてもらった「次々と玄関先に情報がやってくるから、顧客が偉そうになった」の“顧客”とは私、そして、あなたのことである。次から次に起こる出来事と押し寄せてくる情報に対し、いちいち時間をかけて考えているわけにはいかない。仕事行かなくちゃいけないし、レポート書かなくちゃいけないし、洗濯物を干したり買い物しなくちゃいけないんだから、という人が大多数ではないだろうか。