日本が存在しない世界、移民となった女性は旅をする 多和田葉子『星に仄めかされて』が描き出す、越境の物語
登場人物紹介の色が強かった前作よりもより人間関係が濃密になり、「多数の言葉をあびせかけるわりに、話したくないことはまだ何も話していな(p.275)」かった彼らの内面に本作はより迫っている。
そしてそうさせたのは、喋らない男Susanooである。彼に翻弄されることによって、失われた母国に纏わるあれこれに対する美しい懐古や憧憬、純粋な言語への興味を媒介としたHirukoとクヌートの美しい関係といった「小奇麗なもの」の底にある、各々の「痛いところ」が曝け出されていく。また、人を傷つけまいとするあまり逃げてばかりのナヌークが、傍若無人のベルマー医師と性格を交換することで起こる痛快で滑稽なエピソードも見逃せない。
雨は立派だな。文句も言わずに、人間たちの足跡をぴちゃぴちゃ洗い流してくれる(『星に仄めかされて』第一章「ムンンは語る」,p.9)
本作において最も魅力的な登場人物は、この物語の始まりと終わり、いや、前述した独白から物語が始まる第二部の骨格を担っている、皿洗いのムンンとヴィタだ。彼らは「ラ」を多用する独自の言語を使い、雨風星を慈しみ、映画とラジオを愛し、気の赴くままに歌い踊る。「純粋」を絵に書いたような存在だ。特にムンンは、障碍者であると共に、誰にも心を許さないSusanooが唯一「ツクヨミ」と呼んで心を許す存在だ。
「Hiruko・Susanoo・ツクヨミ」と言えば、『古事記』や『日本書紀』に登場するイザナギとイザナミの子供たちである。HirukoがSusanooに誘導されて自分のことを話しているつもりが、海に捨てられた神話上の「ヒルコ」の人生と自分の人生を混同して話してしまったり、『鶴の恩返し』の鶴がイメージの中でHirukoと重なったり、竜宮城に行ったために「社会の時間の枠組みから外れてしまい」、老いることを忘れてしまった『浦島太郎』とSusanoo(Hirukoもまた同じ)が重なったりと、「失われた国」古来の物語は、「失われた」彼らの名前や人生に重層的に重なり、ちゃんと存在している。
Hirukoが語る「おはよう」の温かく尽きることのない愛おしい記憶は過剰に熱を帯び、読者の心にいつまでも尾を引く。
欠落してしまった、日本と思しきその島国の姿は、その世界では失われてしまっているからこそ、実に煌きに満ちている。まるで多和田が『雪の練習生』(新潮社)で描いた、ベルリン動物園で実在していたホッキョクグマ・クヌートの生の煌きが、実際には既に失われてしまった存在だからこそ余計際立つように、この物語に描かれている「日本」はどうにも捨て難いのである。それは警鐘であると共に、愛着でもあるように思う。
彼らは「ためらわずに蛇行し(p.151)」ながら、旅を続けていく。それぞれの星を胸に抱いて、海へと向かう。第三部が楽しみでならない。
■藤原奈緒
1992年生まれ。大分県在住。学生時代の寺山修司研究がきっかけで、休日はテレビドラマに映画、本に溺れ、ライター業に勤しむ。日中は書店員。「映画芸術」などに寄稿。
■書籍情報
『星に仄めかされて』
著者:多和田葉子
出版社:講談社
定価 : 本体1,800円(税別)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000339207