のび太たちが体現する男性学的なテーマとは? 『ドラえもん論』著者・杉田俊介インタビュー
過去に『ジョジョ論』、『長渕剛論』、『宇多田ヒカル論』、『宮崎駿論』などの著作がある、1975年生まれの批評家・杉田俊介。文芸誌や思想誌で労働問題やサブカルチャーについて健筆をふるう彼がこの度上梓したのが、『ドラえもん論 ラジカルな「弱さ」の思想』だ。『ドラえもん』については過去にもいくつかまとまった批評や論考があったが、杉田は男性学やフェニミズム的な観点からジャイ子やしずかちゃんに迫っている。PC(ポリティカル・コレクトネス)的な、あるいはルッキズム的な解読格子によって、『ドラえもん』はどのような作品として捉えられるのか。著者の杉田にインタビューを行った。(土佐有明)
のび太君とドラえもんは共依存的な関係
――ドラえもん論は、過去にも何人かの著者が書いていますが、自分ならこう書くというアイディアがあったのでしょうか?
杉田:『ドラえもん』の世界の核心を率直に書いた方が面白いと思いました。あらかじめ何らかの価値観ありきで『ドラえもん』の世界を裁断するような評論とか、日本の社会状況を社会学的に論じるタイプの『ドラえもん』研究は過去にもいろいろあるのですが。でも僕が子供の頃から感じていたいちばん面白いところや危ないところは、あまり真正面から論じられていない、という印象が正直ありました。
――面白くて危ないところってどういうところでしょう?
杉田:たとえば、どんなに科学技術が進歩しても、人間の根本的な愚かさや無力さは克服できない、というところなどでしょうか。ロボットとしてのドラえもんって、科学技術が発達した22世紀に作られたんですけど、どうやら未来の人間たちは、今の我々と比べてそれほど賢くもないしあまり進歩もしていない。科学技術の発達と人間の愚かさのギャップという問題は、のび太君のキャラクターにも反映されています。何度成長しようとしても成長できないし、便利なひみつ道具をろくに使いこなせずに、また元のダメな自分に戻ってくる。
――のび太は成長しないけれど、ドラえもんは?
杉田:「てんとう虫コミックス」の初期のほうでは、ドラえもんって結構キレやすいキャラなんです。最初の頃はジャイアンよりもスネ夫の方が悪役なんですけれど、スネ夫がのび太に突っかかってくると、のび太君よりもドラえもんの方が先にキレて、暴走したりします。けれども、物語の途中から、のび太君があまりにもダメなままだから、ドラえもんが「もうだめだ」って諦め顔になってくる。その辺りから、のび太君の弱さだけではなく、ドラえもんのほうの弱さにも段々焦点が当てられていきます。妹のドラミちゃんと比べて、いかに自分がポンコツであるかを反省したり。
――ドラえもんってもともと、欠陥のあるロボットでしたよね。
杉田:ドラえもんってもともと、のび太君のお世話をするケアロボットなんですよね。でも、ケアロボットとしてはドラミちゃんの方が全然優れている。そもそもドラえもんは、未来社会でもダメでポンコツで、廃棄処分寸前だった。たとえばコミックスの第1話では、ドラえもんはのび太くんにタケコプターを渡すんだけど、頭じゃなくてお尻のあたりにそれをつけて、ズボンが脱げてのび太くんは墜落してしまう。ドラえもんは「僕に任せておきなさい」と自信満々に言うんだけど、のび太くんは「あいつ大丈夫なのかな?」ってそれを疑わしく思うところで終わっている。
――のび太とドラえもんの関係性はどう変わっていくんですか?
杉田:のび太君の弱さって、勉強や運動ができないとかケンカが弱いというよりも、他人に対する依存体質にあるわけです。ドラえもんは、自分が助けてばかりいると、かえってのび太君は成長できないんじゃないか、という反省意識が強くなっていく。ほんとうは転んだ時に起こしてあげるよりも、自分で立てるようにすることが重要なわけです。わかってはいるけれど、のび太君の頼みをどうしても断るに断れない。過度に甘やかしてしまう。ある種の母性愛のようなもの。それがドラえもんの根本的な弱さなんです。それゆえ、のび太君とドラえもんは共依存的な関係になり、お互いの弱点を増幅させてしまう。それはそのままでは友情になりえないんですよね。コミックスの巻を追うごとにそういう関係性に対する自覚がふたりに芽生えていきます。
――ひみつ道具がなくても、ふたりの関係性は変わらないのでしょうか?
杉田:昔、筋肉少女帯の大槻ケンヂさんが「ポッケのないドラえもん」という比喩をよく使っていました。ひみつ道具を使えないドラえもんは、この世で一番の役立たずであり、無力な存在の象徴だと。これはドラえもんがポケットをなくしたり、壊れたりして無力化する1990年代のドラえもん映画のテーマでもありました。それならば、のび太くんにとってほんとうに大事なのは、便利な科学技術の恩恵なのか、ドラえもんという存在そのものなのか。二人の友情の中心には、そうした葛藤があるわけです。藤子F先生の作品ではたとえば『ブリキの迷宮』、近年の作品ではたとえば『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』などで、そのあたりの葛藤がラジカルに描かれています。のび太君にとってはもちろん、たとえ科学技術の恩恵がなくても、ドラえもんという存在そのものが大事であるわけです。
――では、ドラえもんの「危なさ」とは?
杉田:たとえば『ドラえもん』の映画ではしばしば、愚かな失敗や戦争をくりかえす人類の度し難さにうんざりした海底人や地底人や天上人が出てきて、人類を絶滅させようとします。しかし怖いのはそのことではありません。本当にやりきれないのは、それらのホモサピエンスとは別の形で進化して文明を築いた海底人や地底人や天上人もまた、じつは、人類とあまり変わりないくらい愚かで度し難いんです。つまり、色々な生命体がそれぞれに、どんなに進化して発展して進歩を繰り返しても、結局、自滅的に滅びていってしまう。そういう怖さというか、暗さというか、危なさ。それが『ドラえもん』ワールドの大前提なんですね。