『憂国のモリアーティ』は優れたパスティーシュだーー“正典”への大胆なアプローチを読む

憂国のモリアーティは優れたパスティーシュ

 この世界にある、すべての物語の中で、もっともパロディ、パスティーシュ作品が生まれているのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズ(以下、正典と記す)だろう。ヴィクリア朝のロンドンで諮問探偵をしているシャーロック・ホームズと、その相棒であるワトソンの活躍を描いたミステリーは、発表当時から大きな人気を獲得。現在も世界各地にシャーロキアンと呼ばれる、熱狂的なファンが多数存在している。

 それは作家も同様のようだ。ドイル以降、数多くの作家が、正典のパロディ、パスティーシュを発表している。その中に、名探偵ホームズをして「あの男はいわば犯罪界のナポレオンだよ。この大都会の悪事の半分と迷宮入り事件のほとんどの、黒幕だ」(日暮雅通訳)といわしめた、稀代の悪党ジェームズ・モリアーティを題材にした作品もある。ジョン・ガードナーの『犯罪王モリアーティの生還』『犯罪王モリアーティの復讐』や、キム・ニューマンの『モリアーティ秘録』など、幾つかの作品が書かれているのだ。また、コナン・ドイル財団の公認作品である、アンソニー・ホロヴィッツの『モリアーティ』は、かなり捻った内容だが、一読の価値あるパスティーシュであった。

 その他にも日本人作家の某短篇など、触れたい作品はあるが、煩雑になるので控えよう。このようにモリアーティを題材にした作品の最前線に位置するのが、『憂国のモリアーティ』だ。2020年3月現在、単行本が11巻まで刊行されている。ミュージカル化や舞台化されており、アニメ化も決定した。正典のパロディ、パスティーシュ漫画は今までにもあったが、これほど広範な人気を得たのは初めてのことである。なにがそれほど読者を魅了したのだろう。

 本書を読んで、まず感心したのが、モリアーティの設定だ。厳格な階級社会により、貴族が我が世の春を謳歌していた、ヴィクトリア朝の大英帝国。貴族の長男のアルバート・ジェイムズ・モリアーティは、孤児の兄弟を養子に引き取る。愚劣な貴族を跋扈させる階級社会を憎む三人は、火災を装って家族を殺害。孤児の兄弟を、次男のウィリアム・ジェームズ・モリアーティ、弟を三男のルイス・ジェームズ・モリアーテイに仕立て、大英帝国を変革するために動き出す。アルバートは陸軍中佐になり、密かに牙を磨く。ウィリアムは大学の数学教師を表の顔にし、裏では犯罪相談役として暗躍。ルイスは、そんな兄の手助けをしている。つまりは三人モリアーティなのだ。ここに最初の独創がある。

 とはいえ主人公は、正典のモリアーティを担当する、次男のウィリアムといっていい。非道な貴族を巧みに殺しながら、三人は地保を固めていく。セバスチャン・モラン大佐や、フレッド・ポーロックといった、ウィリアムの配下も、生き生きと躍動する。その過程で大英帝国が諜報組織MI6を設立。アルバートが組織の長となるのだが、これには驚いた。実際の歴史を大胆に変えているのだ。でも、これにより物語の幅が大きく広がっている。

 さらに客船でウィリアムズたちが事件を起こす「ノアティック号事件」で、シャーロック・ホームズが登場(このホームズのキャラクターもユニーク)。ホームズを駒として動かそうとするウィリアムたちと、闘いを繰り広げる。オリジナルの事件もあれば、正典を換骨奪胎し、新たな物語に仕立てたものもあり。どれも面白いのだが、特に感心したのが、正典の「ボヘミアの醜聞」をベースにした「大英帝国の醜聞」だ。正典のホームズが〝あの〟と呼ぶアイリーン・アドラーがバッキンガム宮殿から盗んだ文書を巡り、錯綜したストーリーが楽しめる。文章の内容は驚くべきものであり、物語の着地点にも意表を突かれた。正典に対する知識があったほうが味わい深くなるが、知らなくても問題なく読める。優れたパスティーシュとは、そのようなものである。

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