のび太たちが体現する男性学的なテーマとは? 『ドラえもん論』著者・杉田俊介インタビュー
子どもたちに楽天さを託そうとしている
――コミックスの『ドラえもん』の始まった69年は、大阪万博の前年です。万博は「人類の進歩と調和」を謳いながらも、太陽の塔を作った岡本太郎などは、そのテーマに懐疑的だった。経済的には右肩上がりの成長がある一方で、それに疑問を投げかける声もあった。例えば、手塚治虫の漫画にもそうした兆候はありましたね。
杉田:科学技術の発達で人間以上の性能をもつロボットが発明されるけど、ロボットは人間らしさそのものを獲得できない、という苦悩は『鉄腕アトム』の中で描かれていますね。とはいえ、人間が創造したアトムの方が人間よりもヒューマニズムを持っている、というパラドックスがある。そうした矛盾は『ドラえもん』の世界へも流れ込んでいると思います。たとえば1970年代は様々な公害が社会問題になり、やがてエコロジー思想も発展しました。『ドラえもん』でも連載初期から、科学技術の進歩には危うい面があるのではないか、という反省モードがすでに書き込まれています。しかしそれは、そもそも、ドラえもんのひみつ道具に対する懐疑を意味するし、さらにいえば、ドラえもんというロボットのアイデンティティそのものを揺るがしかねないものでもありますね。
――人類の愚かさというのは『ドラえもん』の重要なテーマですね。
杉田:人類をよりよく改良するための発明がかえって人類を危機に追い込んだり、不幸を増幅したりしていく。そういうジレンマをこの本の中では、政治と宗教と科学と進化という4つの視点から考えてみました。『ドラえもん』の世界では、いずれにせよ、暗い結果になるんですね。例えば民主主義的な社会を作ろうとするけど、なぜかどうしても独裁制に陥っていく。科学技術は暴走していくし、宗教はカルト化していく。どうやっても大して成長できない。アーサー・C・クラークのように、人類は進化の果てに超生命になるとか、小松左京のように、破滅と廃墟の中から人類や日本人は再生するとか、そういうビジョンが存在しないんですね。
かといって、完全に悲観しているわけでもなくて、そういう何度やってもダメで愚かな自分たちをどこか斜めから見下ろして、かすかに微笑んでいる。そういうユーモラスな視点が『ドラえもん』にはつねにあります。失敗を何度も何度も繰り返しながらも、何かがほんのちょっとずつ良くなっているのかもしれない。悲観でもなく楽観でもなく、いわば楽天的であるようなところがあって、読者である子どもたちにそういう楽天さを託そうとしているのではないか。
――読者が子供という意味では、携帯もネットもゲームもない当時の世界が古びてしまう、というのはないでしょうか?
杉田:逆に『ドラえもん』ではまだまだ魔法のように空想的だったテクノロジーが実現可能になりつつある、という面もありますよね。
――ああ、ほんやくコンニャクが翻訳機のようだったり、糸なし糸電話がスマートフォンを連想させたり。
杉田:人間にとっての技術の意味って、一方向的に進歩するものじゃなくて、行ったり来たりしながら螺旋状に、モザイク状に展開されていくものだと思うので。ファミコンミニみたいなものにある種の「新しさ」を感じられたり。
ジャイ子は本当に気高い
――著作を拝読していちばん驚いたのは、ジャイ子が気高い女性であるという指摘でした。彼女は漫画家を目指していて、ジャイアンは歌手志望だから剛田家はアーティスト一家だと。
杉田:ジャイ子は最初、のび太君の不幸な未来の象徴として出てきます。しずかちゃんと結婚したいけど、ジャイ子みたいな性格も見た目も悪い女性と結婚するのは嫌だって。現代の価値観からすれば、ルッキズムなどの非常に差別的な視点が入っているんです。
でも、彼女は漫画家になるのが夢で、漫画家として職業自立しようとしていて、周りからどう見られているかをあまり気にしていません。恋愛結婚を目指してもいない。自分の作品に対してすごく厳しいんですよね。ジャイアンが妹愛を発揮して、ジャイ子が漫画家デビューできるように根回しするんですけど、ジャイ子はそれをあえて断ったりもする。たんに承認欲求を満たしたいわけじゃない。読者からの批判に納得すると、自分の漫画の路線を切り替えたりする柔軟さも持っています。
――ここまでジャイ子について紙幅を割いたドラえもん論も珍しいですよね。
杉田:フェミニズム系の論者の中では、かなり注目されてきたと思います。たとえば茂手もて夫というキャラが終盤に出てきて、ジャイ子は彼に最初は恋愛感情を持つんだけど、結果的には友人になり、むしろ、漫画を愛する者としての「同志」になる。もて夫君とジャイ子の関係には明らかに安孫子素雄先生(藤子不二雄Ⓐ)さんと藤子先生(藤子・F・不二雄)の関係が重ねられています。恋愛によって救済されるのではなく、あくまでも漫画創作を通して切磋琢磨する関係に着陸する。
ジャイ子はたぶんスクールカースト的には、のび太君と同じかもっと過酷な下層にいると思う。そんなに勉強もできないみたいだし、外見的にも色々とバカにされたり差別的な言動を浴びている。のび太君が自分の弱さを結構こじらせているのに対し、ジャイ子は自分の運命を嘆いていないし、誰かに責任転嫁したりもしていない。そういうところがジャイ子は本当に気高いですね。たんなる職業自立的な女性、というだけではなく。
――ジャイ子はのび太とスペックはほとんど変わらないのに、こじらせていないと。
杉田:そうですね。のび太とジャイ子の関係がもう一回交差していたら、どうだったんだろうと思ったりします。恋愛関係という意味ではなく、人間同士で向き合って新たな「心の友」になれたらと。
『がんばれ!ジャイアン!!』という感動中編がかつてありましたが、今『ドラえもん』映画を作るなら、ジャイ子を主役にするといいんじゃないか。今なら絶対に世の人々の心をつかむと思う。ジャイ子的な存在が体現するフェミニズム。容姿や恋愛に恵まれなくても、人は気高く生きられるという。実力もあるし外見も可愛いけど社会から不当に認められていない、という作品はよくありますが、ジャイ子のような女性が何もこじらせずに気高く生きていく、っていう作品はそれほど多くない。ジャイ子にのび太君がどうやって再び向き合えるか、ジャイ子に匹敵する人間になれるかを描いたら、男性学的な意味でもちょっと面白いんじゃないかな。
――ちなみにジャイ子はスクールカーストだけではなく、経済的にも下層の家に生まれていますね。
杉田:当時はまだ一億総中流社会っていう幻想があったけど、野比家は多分中流の下くらいですかね。借家暮らしで、小遣いも不払いになる生活レベル。出木杉くんとかしずちゃんの家はおそらく中流の上ぐらいでしょう。スネ夫は上流。剛田家は下の上くらいなんじゃないかな。『ドラえもん』の世界では、剛田家のジャイアンとジャイ子だけが、将来の職業に対するイメージをはっきり持っています。二人とも広義のアーティスト志望なのが面白い。
――よく指摘されますが、ジャイアンは映画になるとキャラがだいぶ変わりますね。
杉田:本にも書いたんですけど、『ドラえもん のび太の大魔境』ではジャイアンの弱さがポイントになってきます。ジャイアンが自分の失敗を「男らしく」背負おうとするんだけど、それができずに一人で苦しむ。弱さを見せられず、陰で泣いている。まさに男らしさの呪縛ですよね。
物語の中ではしずかだけが、ジャイアンの心の葛藤に鋭く反応するんですね。しずかもまた、作中では「紅一点」という役割を強いられています。『大魔境』には彼女の「お風呂問題」というのがあって、男の子たちはしずかのキレイ好きがだんだん疎ましくなってくる。そういう女の子としてのヴァルネラビリティ(傷つけられやすさ)がジャイアンと共鳴して、ふたりの友情の新たな面が見えてくるわけですね。そしてそれは全員の関係に波及していく。そういう弱さのシェアとか弱さの情報公開から再構築されていく友情が描かれた作品です。
――あと、世間では『ドラえもん』と『風の谷のナウシカ』を対比させて、ナウシカはリーダーシップがあるけれど、のび太はまるでダメだ、みたいな論調もあって。そんな単純な二項対立でもないだろうと思ったんですが。
杉田:ダチョウ倶楽部の(上島竜平を中心とした)竜平会ってありますね。ああいうリーダー像もあるなと思っていて。あまりにも上島さんがダメだから、みんなでそれをカバーして世話するうちに、自然と結束力が高まっていく。そういうリーダー像もいいんじゃないかと(笑)。みんないかにのび太くんがダメかは分かっているけど、でも嫌いにはなれない。それで各自がやるべくことをやろうとする。そこに弱さをシェアするコミュニティができていく。ナウシカみたいな超人的なカリスマがリーダーっていうのも、時には息苦しい気がしますけどね。