カミュ『ペスト』の“予言”と小松左京『復活の日』の“警告”ーー感染症を描く古典は“不感症”への予防接種となるか

感染症を描く古典『ペスト』『復活の日』

 新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)が不安を広げるなか、感染症を扱った既存の作品が再注目されている。今回は、そのなかでも古典といえる小説2作について語りたい。アルベール・カミュ『ペスト』と小松左京『復活の日』である。

 『ペスト』は、不条理文学を代表する『異邦人』で知られ、1957年にノーベル文学賞を受賞したカミュが、1947年に発表した長編だ。舞台となるのは、作者の出身地でフランスの植民地だった北アフリカのアルジェリア。伝染病のペストが発生したため封鎖されたオラン市の人々の苦境が描かれる。その筆致はリアリスティックで臨場感がある。

 ネズミの死が続発した後、熱病の症例が増えだした。医者たちは伝染性であることを疑い、新規患者の隔離を医師会会長に要請するが、県の手続きが必要と返答される。『ペスト』では感染拡大の初期から、法律、行政などの制度の問題や知事の権限について書いていた。また、作中には、世間はそれに病名をつける勇気がなく、冷静さを失うなとだけいいたがると指摘するセリフもあったのだ。

 しかし、ついにオラン市は外部から遮断され、市外電話も停止されて連絡手段は電報だけになってしまう。公益のための政策は、離れ離れになる人々を考慮しない。外部からの来訪者は市を脱出しようと企む。お上の措置によって不利益になっても、ペストが勘定を払ってくれるわけではない。死者の病院費用は市の予算か近親者の弁済かは役所の事務にかかわってくる。新たな血清作りにとり組むが、一般化するためには工業的な量が必要だ。治療する側がマスクをするのは、役に立つからではなく、そうすると患者が安心するからである。入院隔離を強いられる患者は実験材料になるのはいやだといい、発症していない人々も自宅への流刑を命じられる。

 このようにカミュは、感染拡大に伴うあらゆることがらを『ペスト』に盛りこもうとした。今年1月後半から新型コロナをめぐる報道が続いているが、メディア上で飛び交っている論点のほとんどは、70年以上前に発表された『ペスト』に含まれていたといっていい。この古典は現在、予言の書であったかのごとく再注目されているが、同作には市民が歴史上のペストとの比較やノストラダムスなど過去の予言を話題にする光景まで記されていた。この小説を読んで、昔はこの程度しか対応できなかったがそれでも歴史は続いたのだから今度も大丈夫と楽観するか、人類は進歩していないと悲観するか、感想は分かれるだろう。

 対策を打つものの後手後手で人々はどんどん追いつめられていく。同作の展開は、パンデミックを含め異常気象や大事故など、パニックが発生する災厄を題材にしたディザスター映画のパターンでもある。ただ、ハリウッド的なエンタテインメントとしてのディザスターものの場合、過酷な事態に立ちむかうヒーローが主人公になる。『ペスト』でも視点となる主要人物の1人は医師のリウーであり、確かに病気に立ちむかっている。だが、有効な治療法はなく、人を救うためではなく隔離対象を選別するための仕事にならざるをえない。無力なのだ。彼は、現在一般的なディザスターものの主人公のごとき活躍はしない。

 一方、小松左京『復活の日』は『ペスト』とは異なり、もう少しヒーロー的に行動する人物が登場する。だが、同作もまた苦い挫折を語った作品だ。

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