町田康「人間って自分を乗り越える方法はそんなにたくさんない」 音楽と日本語、そして酒を呑むことのつらさ

町田康が語る、酒と音楽と日本語

 町田康、新作エッセイ『しらふで生きる』インタビューの後編。前編では著書『しらふで生きる』の話を中心に、文学的な酩酊や原因と結果の連鎖などについて語ってもらった。後編では前回で少しだけ触れた音楽のことや、日本語と歌詞の関係性、そして酩酊したことで書けた作品はあるのか?などさらに深掘りした内容となった。(編集部)【最後にプレゼント企画あり】

前編:町田康が語る、酒を断って見出した“文学的酩酊” 「日常として忘れていく酩酊感が読者に伝わったら面白い」

音楽は日本語を表現したいからやっている

――『しらふで生きる』には折口信夫の話が出てきます。町田さんが小説を書くときの感覚も、折口的なライブ感覚に近いんですかね。折口もドラッギーな人でした。

町田:あんな偉い先生と比べるべくもないですけど(笑)。直感的な古代人の魂が降りてくるみたいな? まあ、そこまでじゃないにしても、大伴旅人の酒の歌について書きましたが、いまの人と時代は離れていますが、人間の変わらない気持ちは昔の歌にも感じますよね。無遊状態で筆先みたいにして書いているんですかね(笑)? 自分で書いているところを動画撮って見たらわかるかもしれないですけど、書いているときは集中して書いていますから、自分がどんな感じなのかわかりませんね。人とも比べられませんし。他の人がどんな感じで書いているかもわかりませんし。

――葛西善蔵という大正期の小説家がいます。葛西は流しのヴァイオリン弾きをしていたという話もありますが、やはり二日酔いで書けないときなどは、民謡の言葉などを引用しながら書き継いだりします。

町田:なるほど。散文を書きながらも詩的な直感みたいなものに行くんですね。

――『しらふで生きる』を読みながら、葛西善蔵のことも思い出しました。

町田:そういう読み方をする人はちょっと珍しいですね(笑)。

――一般的には、どのように読まれているんでしょうか。

町田:この本は思考の過程を細かく書いています。小説でそこまで細かくすると、多くの読者は読むがダルいと放棄しちゃう場合が多いんですけど、酒のことになるとみんな興味があってわりと付き合ってくださる。「面白く読んだ」という人が多い。あと、最近はツイッターとかで反応が見られるんだけど、「呑みながら読んだらけっこう楽しかった」っていう人がいましたね。あと、担当編集者はライブのときに、ビールを呑みながらこの本を売っていました(笑)。まあ、酒やめマニュアル本ではないということですね。最初はマニュアル本のほうに寄せたタイトル候補もあったんですけど、最終的に話し合っていくうちに、「マニュアル本じゃないよね」ということになりました。けっこうギリギリまで考えました。

――そうなんですね。お酒をやめさせるということよりはむしろ、酩酊感を大事にされているということですか。

町田:音楽もある程度意識が飛ぶというか、気持ちが変容するということがないと聴かないじゃないですか。良い気持ちになるとか、メランコリックな気持ちになるとか。感情の動きがあるから音楽を聴くわけでしょう。だから、なにもないものを読んでもどうなんだろうと思いますね。もちろん、なにもない文章でしかあらわせないものもあるんでしょうけど。

――そういう意味では、音楽も小説も差を設けていないということでしょうか。

町田:その点ではそうですね。ただ、音楽の側から言うと、いわゆるミュージシャンとはちょっと違う歌いかたをしている可能性があります。他の歌手の人と詳しく話したことがないからわからないんですけど、ミュージシャンの人ってやっぱり節(ふし)を歌っているんですよ。メロディを歌って、リズムを表現し、ハーモニーを表現しているんですよ。僕は――昨日もライヴをやったんですけど――しばらくやるうちに、はたしてそうなのかという気がしてきました。なにか言葉を表現しているのではないか。意味とか内容とかでは決してないのだけど、やっぱり日本語を言いたいんじゃないかという気がするんですよ。だから、英語で歌うこととかまったく興味がないんですよ。やっぱり、日本語を表現したいからやっているんじゃないか。それは、もともと好きだった河内音頭とか浪曲とか、あるいはもっと古い説教節とか、あるいはもっと古い平家物語とか、そういう系譜の果てなのかなと思います。だから、俺はいわゆるミュージシャンではないな、という気がします。

――〈語り〉ということですね。言葉を通して異世界を出現させる。

町田:そうですね。でも、ただの朗読ではなくて節がついて伴奏がついている。

――そういう系譜で言うと、語っている主体は空っぽであると言われますが。

町田:そっちに話を持っていこうとするね(笑)。


――いやいや、すみません(笑)。また折口的な話になってしまいますが、歌っているときもそのような感覚があるんですか。

町田:もともとはロックとか聴いて、かっこいいなと思って、自分もやってみたいなと思ったんだけど、長くやってみると日本語がやりたかったんだなと思いました。ここまでは確実に言える。まあ、わからないですけどね。日本語で歌詞を書いているうちに、それに興味が出てきたというだけの話かもしれませんけど。ただ、たしかに気持ちいいメロディを気持ちよく歌ったら気持ちいいけど、それだけだとつまらないかな。そんな上手にできないしね。上手にできたら気持ちいいかもしれないけど、それはもう、上手に楽器を弾くことと変わらない気がする。

――そのような意識はINUなど活動の初期からあったんですか。

町田:ないですね。この2年くらいです。というのは、決められたメロディがあっても音程を間違えてしまうんですよ。作曲した人にピッチが合わないと言われてしまう。それは、もともともらった節が難しくて自分が技術的に歌えない、ということもあるんですけど、それ以外に、簡単でも歌えないということがあるんですよ。なんでだろうと考えると、やっぱり日本語の抑揚なんですよ。自分が書いた日本語の抑揚に、知らないあいだに寄せて行ってしまうんですよ。日本語の抑揚にも微妙に高低がありますから、そのメロディに合わない歌詞を書いたら、頭ではメロディがわかっていても、やはり声に出すと日本語に寄せて行ってしまっているんですよ。そうすると、やっぱり日本語をやりたいんだと思うんですよね。

――新しいバンドの「汝、我らの民に非ズ」は、いままで一緒にやってきた人たちとは違う人たちで組んだバンドなんですよね。

町田:昔から音楽が好きな人や音楽が上手な人は音楽をずっとやっていて、それはひとつの流れとしてあったんです。でも、僕がいたところというのはパンクとかロックとかで、音楽というより生きかたとか物の考えかたとかカウンターカルチャーでした。ある種の社会運動のようで音楽命みたいな感じじゃなかったです。いま、一緒にやっているのはみんな音楽の人で、少し毛色が違うんですよ。面白いですけどね。僕はどっちが良くてどっちが悪いとか、どうあるべきかとかは思わないです。ロックとか自分がいた世界は、いまから考えれば、ロックという名の演劇をやっていただけに過ぎないという気持ちがあります(笑)。それを楽しむ人もいますし。ただ、演劇をやっているのなら、演劇だとわかってやっていたほうがより楽しいだろうと思います。演劇を本当だと思って、映画のスクリーンに怒っていたら、それはバカみたいな話ですから。

――INUのときとかはカウンターという意識があったんですか。あるいは、アルケミーあたりのときとか。

町田:INUとアルケミーってかなり時代が違いますから、空気感が微妙に違うかな……って誰がわかんねん、この話(笑)! 僕らがというより、時代全体がそんな感じでしたね。いま若い人に言ってもなかなかわからないかもしれませんけど。その尻尾というか残滓というか。時代って急に新しいものが生まれてくるわけじゃなくて、いま最先端と思われている音楽もずっとつながっていますからね。さっきの原因と結果の細かい連鎖と同じように、すべてつながっています。誰かのネタをいいなと思ってなにかをやった、それを見ていいなと思った人がまたなにかをやった、それを見て……といった感じで、細い糸だけどつながっていますから。その綱が細いか/太いか、しっかりしたものなのか/みんな忘れちゃったものなのか、というのはけっこう大きくて、そういう意味では空虚だなと思うことは思います。まあ、僕が言っているのは狭い世界の話なんですけど。

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