『わたしの美しい庭』著者・凪良ゆうが語る、人の縁の難しさ 「集まるというのは、排除することと同義」

『わたしの美しい庭』著者・凪良ゆうが語る、人の縁の難しさ 「集まるというのは、排除することと同義」

   凪良ゆうはBL作家として文芸界の注目を集め、現在は一般文芸作品を中心に発表し、出版各社の文芸編集者たちを次々と虜にし続けている新進気鋭の作家だ。その魅力は出版社の垣根を超え、各担当編集が共同で『チーム凪良』というツイッターアカウントを作るほど。待望の新作『わたしの美しい庭』(ポプラ社)は、父・統理と血が繋がっていない小学生・百音の二人暮らししているマンションの屋上にある、「縁切り神社」に訪れる不器用な人間たちがもがきながら生きていく姿を通し、揺らぎがきちな「個」と「繋がり」に向かい合った作品だ。今回、著者である凪良ゆうに舞台を「縁切り神社」にした理由、血の繋がり、出版社によって執筆できるの作品の違いまで詳しく語ってもらった。(編集部)【インタビューの最後にプレゼント企画あり】

縁切り神社のあるマンションで暮らす人々の物語

――屋上庭園の奥に「縁切り神社」のあるマンション。宮司兼大家をつとめる統理と、亡くなった彼の元妻と再婚相手の娘・百音(10歳)。『わたしの美しい庭』は、この“なさぬ仲”の親子と縁切り神社を通じて、生きづらさから抜け出していく人たちのお話です。

凪良:最初は、同じマンションに暮らす人たちの物語を、統理と百音、それから統理の親友・路有を軸に描いていこうと思っただけで、縁切り神社という設定はなかったんです。ところが、担当編集者さんに、なにかもうひとつ物語を貫く芯のようなものがあったほうがいいんじゃないかと言われまして。

――それで縁切り神社を。

凪良:もっとハートフルなものにしろよって感じですよね(笑)。いちおう“悪い縁だけを切ってくれる”ので、ネガティブなものではないんですけど。思いついたのは、昔、京都で有名な縁切り神社のそばに住んでいたことがあって……。

――あの神社ですか。穴のあいた石にびっしりお札が貼ってあって、うかつには絶対近づいちゃいけないという。

凪良:絶対にだめですよ。私、あそこから徒歩1分もかからないくらいの距離に住んでいたんですけど、かなり怖い目にも遭いましたし、そもそもお寺とお墓が裏手にあるようなマンションだったので、引っ越しました。ただ、仕事帰りに夜でも境内を抜けたりしていて、日常のすごく近しい存在でもあったんですよね。時間もずいぶん経っているので題材として扱うことに抵抗はなかったですし、結果として、小説のなかでうまく機能してくれたなと思います。


――登場する人物がそれぞれ「何と縁を切りたいか」考えるシーンは象徴的でした。人なのか、心なのか。自分自身にも照らしあわせて考えてしまいましたし。ただ、描かれるのはすべて、統理・百音親子の周辺にいる人たちなんですよね。統理たち自身ではない。

凪良:親子関係を描きたいという想いはもちろんありましたし、だからプロローグとエピローグは百音の視点で締めているんですけど、彼らそのものというよりは、とりまく人たちを通じて浮かびあがるものを描きたかったような気がします。“なさぬ仲”と陰で言われて、いろいろ心配されている二人ですけど、私は、実は彼らがいちばん関係性としては安定していると思っていて。まわりからは不安定だと思われている人たちが実は周囲を支えているんだ、ということも書きたかったんです。作中でも書きましたけど、自分は親切であるはずだと思ってやることが、相手にとってはそうでないことってたくさんあるじゃないですか。

――「百音をひきとって本当に大丈夫か」という外野の心配はもちろんですが、1話の語り手・桃子は39歳独身であるがゆえに、結婚相手をお世話されたり、断るとわがままと言われたりしんどい思いをしていますね。

凪良:そう。された本人にとっては嬉しいどころかしんどいだけ、ってことはあんがい多いと、私自身、日常でときどき感じるので……。基本的に、人と人はわかりあえないんですよね。だからこそ大事なのは、わかりあおうとするための努力。それは決して親切や善意の押しつけによっては成らないし、相手にとって何がほんとうに必要なのか、自分の主観をおいて考えることなのではないかなと思います。そして、努力のうえでやっぱり理解しあえなかったとしても、それは当然のことなのだからガッカリしない、というスタンスがいいんじゃないかと思いながら書いていました。

理解できないまま放っておくことの難しさ

――路有が語り手の第2話にもありましたね。「理解できないならできないでしかたがない。だったら黙って通りすぎればいいんだ。(略)良心の呵責はおまえらの荷物だよ。人を傷つけるなら、それくらいは自分で持て」。高校時代、路有がゲイだと露見したとたん無視しはじめたくせに「嫌いになったわけじゃないけどごめん」と謝ってきた級友に、同級生だった統理が言うセリフです。

凪良:集まるというのは、排除することと同義。最近は、人はひとりでは生きていけないのだから絆を大事につながっていこう、みたいな空気がありますけど、それを言えば言うほど弾かれしまう人たちがいると思うんです。人はわかりあえるときもあるけど、わかりあえないときのほうが多いのだから、最初から、あまりにぎゅっと濃密に集まろうとしないほうがいいんじゃないかなあと思います。くりかえしになりますけど、わからないならわからないままでいい。そのまま放っておくことができないのも、人間らしいとは思うんですけどね。でも自分たちの良心の呵責をやわらげるために介入するのはちがうと思うし、放っておけない自分のことを親切だと思うのもちょっとちがうのかなあ、と。

――「思いやりとは、自分がされて嫌なことを人にもしないことです」と学校の先生に言われた百音も悩みます。統理との暮らしは百音にとって不満もなく穏やかそのものなのに、まわりの友達はそれに触れちゃだめだと思っている。それは友達にとって自分の環境が「かわいそう」だからだけど、認識していないその「かわいそう」を突きつけてくるそれは本当に思いやりなのか、と。

凪良:みんな「思いやり」が好きですからね……(笑)。「おもてなし」もいわゆる思いやり精神じゃないですか。確かにおもてなしされると嬉しいけれど、別にそこまでしてくれなくてもいいよってことはある。日本のサービス精神は過剰だなと感じることもありますし、終わりのない作業でもあるので、どこかで断ち切らないといけないなと思います。

――桃子も、心配する周囲に「ありがたいと思わないといけない?」と困ったように言っていましたが「それは必要ない」とか「そんなにいいよ」というと「人の気持ちを無下にして!」と怒られる傾向も強いですよね。いらない、と言えない。

凪良:これも作中に書きましたが、思いやりにも段階がって、百音くらいの年齢相手だと先生もああいう教え方をするしかないんでしょうけど、人によって「されて嫌なこと」はちがうんだということを本当は学年があがるにつれて教えていかなくてはいけない。でも中学や高校でそんな機会はないし、大人になればなおさら。そして大人になればなるほど「あなたの善意は不要です」なんてはっきり言ってくれる人は少なくなるし、本当に傷ついた人は「ありがとう」と表面上は笑いながら黙って離れていってしまう。私はそれが、怖いんです。自分も同じ失敗をしているはずだと思うからこそ、とりかえしがつかないことになる前にその手前であがきたい。失敗しないのは無理でも、気づいたときにちゃんと挽回できるように。桃子や路有という傷ついている人たちを通じて、そういうことを描けたらいいなと思いました。


――三話の語り手である基は、桃子の忘れられない元カレの弟です。うつ病になってしまった彼をとりまく善意の話も、なかなかしんどいものがありました。とくに基の彼女の真由。鬱の人に頑張れと言ってはいけない、その人が悪いわけじゃないのだから、とわかっていても支える側はそれだけではやっていられない苦しさも、わかるので。

凪良:愛があっても、鬱の彼氏を支え続けていくのはしんどいですよね。療養のため基は実家に帰ったからなかなか会えないなか、自分も社会人としてひとりで立たなきゃいけないし、予定していた結婚もいつできるかわからない。二人の関係はどうなるのがいいのだろう、と思いながら書いていたんですが、最後に真由が、きれいごとで包まない自分の本音を伝えられたのはよかったな、と思います。

置いていかれる人のさみしさ、という通底するテーマ

――桃子は、基の兄である元恋人を亡くしたという設定ですが、『神様のビオトープ』の主人公・うる波は夫を事故で亡くしていて、『流浪の月』の更紗は幼いころに父を亡くし、母にも捨てられています。凪良さんのなかで「追いていかれる人」というのは大きなテーマなのでしょうか。

凪良:もともと私自身が身内に縁が薄くて、置いていかれるさみしさのようなものを実感して育ってきたのは影響しているかもしれません。なんでこんなに上手に縁が結べないのかなあ、と思いつつ、私にも悪いところはきっとあるにせよ、身内の問題に絡んでくるとそれだけの問題じゃない気もしていて、そういう星のもとにうまれたのかなと今は思っています。

――ああ、だからでしょうか。凪良さんの小説を読んでいると、血の繋がりに対してものすごくフラットな印象を受けるんです。家族という枠に、意味を見出だしすぎていないというか。たとえば『流浪の月』のお母さんはとても軽やかに更紗を置いていくけど、『神様~』では叔母さんだけがうる波にとても親身で優しい。家族だからという理由ではなく、一対一の個人として関係を描いていますよね。

凪良:あまり感情的に書きすぎると逆に薄れてしまうものがあると思っているので、なるべくおさえるようにはしています。たとえば『流浪の月』で母親が更紗を置いていく場面は、いくら更紗の視点とはいえ、彼女が世界の中心になりすぎると台風の目みたいに物語全体をぐちゃぐちゃにしてしまう。もちろん彼女が、悲しみや怒りを言語化できないほど幼かった、というのもありますが、それゆえに際立ったものもあるかなあと。あの場面はとくに女性に、好きだと言ってくださる方が多いんですが、自分でも「私だから書けた」と思える描写なので、うれしいです。

――路有は、セクシャリティをカミングアウトしたことで、両親に縁を切られたことが傷になってはいますけど、そんな彼が統理と百音のそばにいることで〈その気になれば、俺たちは血や戸籍以外でもつながっていける。簡単ではないけれど、それは確かな光だと思える〉と答えを見つけられたことは、凪良さんのフラットさのなかにあるからこそ救いになるのだと思いました。

凪良:そう言ってもらえると嬉しいですね。私は、世間の“普通”になじめない人たち、というのを描くことが多いですけど、現実に同じような想いをしている方たちに、届くものがあればと思っています。

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