斉藤由貴『何もかも変わるとしても』は新たな自己表現のキャンバスだった 再発を機に辿る、歌声に宿った“人生の足取り”

斉藤由貴、歌声に宿った“人生の足取り”

 “俳優”か“歌手”か。もしくはそのどちらも等しくか。斉藤由貴の捉え方は人によって異なるかもしれない。俳優としての彼女の近況と言えば、現在放送中のNHKドラマ10『大奥』の「三代将軍家光・万里小路有功編」で演じた春日局(かすがのつぼね)だ。思わず息を呑むほどの狂気を放った斉藤の春日局をマスコミは“怪演”と称賛。そして1月31日放送回。病に倒れ、床に伏した春日局は、末期のひと時、有功(福士蒼汰)とせつない会話を交わし、その生涯を閉じた。凄まじくも、やがて哀しき名演だった。

 一方、歌手としての近況も(後述するが)マイペースな彼女にしては比較的活発と言えるだろう。2021年2月にはデビュー35周年を記念した初のセルフカバーアルバム『水響曲』をリリース。翌月には武部聡志と共に大阪・横浜・東京でのBillboard Liveツアーを開催。昨年12月28日放送の『発表!今年イチバン聴いた歌~年間ミュージックアワード2022~』(日本テレビ系)では1985年のヒットから今なお愛されているデビューシングル「卒業」を披露したことも記憶に新しい。せつなさと儚さ、そしてどこか不安定な揺らぎを孕んだ歌声の魅力はなおも健在だ。

卒業 from 水響曲 スタジオライブ(feat. 武部聡志)

 そんな斉藤にとって12作目のオリジナルアルバム『何もかも変わるとしても』が彼女のデビュー記念日である2月21日に再リリースされた。本作は彼女がデビュー25周年を迎えた2011年2月14日にリリースされた(前年12月20日に所属マネジメントのサイトで先行販売)。当時、比較的小規模な販売形態でリリースされ、以降は廃盤扱いとなったために長らく入手困難だったのだが、今回、(現所属の)ビクターレコーズによってリマスタリング及び高音質SHM-CD仕様によるリプロダクションが実現した。

 1984年に芸能界デビューし、瞬く間にアイドル的人気を博した斉藤は翌1985年に歌手デビュー。以降、1991年の10thアルバム『LOVE』まで毎年アルバム/シングル/企画盤のいずれかをコンスタントにリリースする。しかし1994年の11thアルバム『moi』以降、(3枚のシングルとセルフカバーによるマキシシングルこそあったものの)オリジナルアルバムのリリースは本作まで実に17年も途絶えることとなった。

 前述の通り、デビュー当時こそアイドル的な人気を博した斉藤だったが、追ってアーティストとしての才能も早々に開花。1986年の2ndアルバム『ガラスの鼓動』で初めて作詞を手掛けると、1987年の4thアルバム『風夢』では自作の歌詞において幻想的な物語や日常のワンシーンへの憧憬といった斉藤の嗜好性が盛り込まれ、オリジナルアルバムという表現形態が彼女の自己表現の場として機能し始める。

 この頃、俳優業と並行して小説家/エッセイストとしても活躍していた斉藤の音楽的なクリエイティビティは、初のセルフプロデュース作品となったファンタジックな詩世界の9thアルバム『MOON』(1990年)と、その対極とも言える当時24歳(リリース時は25歳)だった彼女のリアリズムで形成された10thアルバム『LOVE』(1991年)でピークを迎えた。

 斉藤は過去のインタビューで、音楽で歌えることは一旦『LOVE』で全て出し切ったと語っていた(※1)。そのためか『LOVE』から3年の間を空けた次作『moi』(1994年)では、特にコンセプトを決めず「歌いたい歌を歌ってみる」という自由なアプローチが取られていた。

 では、なぜ『moi』から17年ものブランクが生じたのか? これはあくまで推測だが、筆者は三つの理由を挙げたい。

 まず一つ目は、アルバム『LOVE』だ。次作『moi』をリリースしたものの、当時、彼女の中での自己表現は、一旦『LOVE』で「一区切りがついた」という感覚が強かったのではないだろうか。二つ目は環境の変化だ。斉藤は『moi』のリリース時に結婚を発表し、後に三児の母となる。新しい家庭と俳優業の両立で、自己表現についてのまとまった時間が取れなかったことも大きかったのではなかろうか。そして三つ目はやはり俳優業の充実だ。実際、1994年から2011年までの彼女の出演履歴を紐解くと、映画、テレビドラマ、舞台にナレーション業と引く手数多だったことが分かる。

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