SPEEDSTAR RECORDS 小野朗氏が振り返る、30周年迎えたレーベルの歩み レミオロメン、星野源らヒットの背景も
1992年の設立当時は、シーナ&ロケッツ、泉谷しげる、LÄ-PPISCH、UP-BEAT、FLYING KIDS、MARCHOSIAS VAMP、Theピーズ、頭脳警察、THE STAR CLUBなど。2022年の現在は、UAやくるりのように長年所属するアーティスト、斉藤和義やハナレグミ、スガ シカオ、KREVAのような移籍組、KALMAやリュックと添い寝ごはんのような若手など、とても多彩な、かつはっきりとしたカラーを持ったアーティストが多数所属。そんなビクター内のレーベル、<SPEEDSTAR RECORDS>(以下、スピードスター)が、設立30周年を記念して、2023年3月18日に幕張メッセで『SPEEDSTAR RECORDS 30th ANNIVERSARY LIVE the SPEEDSTAR supported by ビクターロック祭り』を開催する。
現在のレーベルヘッドであり(2010年〜現在)、THE MAD CAPSULE MARKETS、つじあやの、サザンオールスターズ・チームの<タイシタレーベル>の宣伝を担当してきた小野朗に、レーベルとしての歩みと、30周年記念イベントについて聞いた。(兵庫慎司)
ロックレーベルとしての立ち上げからUA、Coccoのヒットへ
ーースピードスターが始まったのは、1992年ですよね。当時『ROCKIN’ON JAPAN』の広告が、鮎川誠とChica Boomのメンバーの写真で「もう一度ロックで出直します」というコピーがついていたのを憶えています。
小野朗(以下、小野):そうですね、そういう広告でしたよね。
ーーその時、小野さんは……。
小野:まだ学生です。僕は1994年入社で、東北担当プロモーターとして最初は仙台にいたんですよ。1年間、洋楽とか別のレーベルの担当をして、2年目にスピードスターの東北エリア担当になって、3年目から東京に来ました。だから、スピードスターには27年関わっているんですね。
ーー1992年ってバンドブームが終わった頃だったので、その時に「もう一度ロックで出直します」というのは、かなりカウンター的な始まり方だったな、と。
小野:(笑)。そうですよね。
ーースピードスターは、もともとビクターで<Invitation>というレーベルをやっていた高垣健さんが、新たに立ち上げたんですよね。
小野:はい。<Invitation>がジャンル的にいろいろミックスされたレーベルだったので、ロックレーベルをもう1回立ち上げよう、ということで。
ーー当時は、ビジネスとしてはどんな感じだったんですか?
小野:いや、最初の頃はうまくいっていなかったと思いますね。ヒットがほとんどなくて。その中でもヒットしていたのは、FLYING KIDS。入社2年目で、初めてスピードスターに関わった時、「とにかくFLYING KIDSを売るんだ」と大号令がかかったのを憶えています。
ーーその一方で、サザンオールスターズの<タイシタレーベル>があって。
小野:そうです。タイシタは別レーベルですけど、会社組織としてはスピードスターの括りだったので。常にサザンに助けられていた、というのは特に最初のうちはありましたね。だから何年かの間は、頑張ってるんだけどなかなかヒットが出なかったんですけど、そこに最初に風穴を開けたのが、UAですよね。UAのデビューが1995年で、「情熱」が出たのが1996年だから、1992年のレーベル設立からUAがブレイクするまで4年かかっている。そこからちょっと空気が変わっていって、そのあとにヒットしたのがCocco。
ーーUAとCocco、それぞれどんなプロモーションが功を奏したんでしょうか。
小野:当時、音楽に関する新しいメディアが出て来た時期だったんですね。FM802とか、スペースシャワーTVができたりとか。
ーーどちらも開局は1989年ですが、メディアとして本格的に力を持つようになったのは、数年経ってからでしたよね。
小野:それで、そことうまく組んで。90年代半ばって、渋谷系のブームもあって、音楽を掘って聴くというのがちょっと流行っていたじゃないですか。そこにマッチしたというか。音楽好きな人が接している媒体に、がっちり推してもらって、ブレイクしていった。アイドルっぽい音楽雑誌とか、JFN系のラジオとか、テレビとかじゃない、ちょっとカウンターというかね。それまでとはちょっと違う売れ方で、そこにうまくはまった印象がありますね。
ーーUAは最初から「これはいける!」という感じだったんですか?
小野:僕らスタッフはみんな、すごく盛り上がっていました。彼女は、ロック歌手っていうよりは、どちらかと言うとR&Bとか……。
ーーそうだ。女性R&Bシンガーのブームが、まだ来る前でしたね。
小野:そう、UAが先鞭をつけた感じでしたよね。あの頃、海外ではアシッドジャズとかフリーソウルが流行っていたから、そこにも接続した気がします。今もかっこいいけど、本当にUAは、やることなすことが全部かっこよかった。
ーーそれから、Coccoは……。
小野:その2年後でした。「カウントダウン」でメジャーデビューして、「強く儚い者たち」でブレイクして。「カウントダウン」はがっつりハードな曲でしたが、メロディアスな「強く儚い者たち」で一気にヒットしましたよね。でも、プロモーションのやり方自体はUAと一緒で、カウンター的なメディアをうまく使って、音楽好きやカルチャー好きを攻めていきました。
「メジャーの手法をきっちりやれたレミオロメン」
ーーUAとCoccoは今も移籍していないですよね。Coccoはビクター内の別レーベルに移ったけど、そこで担当しているのも元スピードスターのスタッフだし。くるりが1998年にデビューして以来、ずっと所属しているレーベルであるというのも、イメージとしてプラスの側面が大きいのでは?
小野:大きいと思います。“ミュージシャンズ・ミュージシャン”だから、くるりも。彼らももちろんカウンター的存在なんですけど、特に初期の頃は、アルバムごとに色彩がすごくはっきりしていたじゃないですか。あれだけのことができるミュージシャンって、なかなかいないと思うので、その辺りをうまくすくい取って、売っていこうとしていた気がしますね。
ーー曲の振り幅はくるりの魅力ですよね。
小野:そうですね。しかもアルバムには必ずフックになるような曲を組み込んでくれています。「ワンダーフォーゲル」だったり、「ばらの花」だったり、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」だったり。それ以降も、アルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』の「ジュビリー」とか。ライブでこれをやると盛り上がるという曲が、必ずアルバムに入っている。そういうのは、やっぱりちゃんと考えてやっているんだろうな、と思いますね。
ーーそしてUA、Coccoの次の大ヒットというと、レミオロメンでしょうか?
小野:レミオロメンですね。「粉雪」が、シングルで80万枚以上売れたかな。レミオロメンはヒットすべくしてヒットしたというか、誰もヒットすることを疑ってなかった気がしますね。デビューが決まった時点で「これを売れなかったら、レコード会社としてはまずいな」というくらい、ポップでいい曲が揃っていたから。あとは、さっき言ったようなニューメディアを使いこなす術を、うちの部署の人間がほぼみんな身につけ、使いこなしてあそこまで持っていった、というところもあって。そこにさらに、あの規模だったから地上波のテレビ番組とかもあって。だから、レミオロメンのおかげで、いわゆるメジャーヒット……UAとCoccoもミリオンに近いセールスだったけど、見え方的にはカウンターだったと思うんです。でもレミオロメンは、わかりやすいメジャーっていうところに行ったので。それで我々も、メジャーの手法を、サザン以外で初めてきっちりやれたのはあったと思います。