武満眞樹が明かす、父 武満徹の深い映画愛 日本映画の巨匠に囲まれて作り上げた映像音楽の名曲
昨年、没25年を迎えた世界的な作曲家・武満徹(1930年-1996年)は、多い時で年間300本以上も映画を観ていたという程の“シネフィル”で知られ、映画愛にあふれたエッセイなどの著作も多い。特に1983年に開館してミニシアター全盛期に人気を集めた「シネ・ヴィヴァン六本木」の映画パンフレット(※アンドレイ・タルコフスキー監督『ノスタルジア』やビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』など)に掲載された、蓮實重彥との対談は今も語り継がれる伝説となっている。もちろん、武満は現代音楽の世界と同じように、映画やテレビといった“映像のための音楽”の分野にも比類なき業績を残しており、先日も彼がこのジャンルに遺した名曲をセレクトして、第一人者の尾高忠明が指揮するNHK交響楽団の演奏で新たに録音したアルバム『波の盆 武満徹 映像音楽集』がリリースされたばかり。
この度本盤について、かつて洋画の翻訳などに携わり現在は音楽プロデューサーでもあり、誰よりも武満徹の素顔を知る愛娘・武満眞樹さんに話を聞いた。(東端哲也)
劇伴は映像と一体になって完成するものと考えていた
――武満徹さんの眠るお墓があるのは、このキングレコードの近く(文京区小日向にある曹洞宗日輪寺)ですね。武満徹さんは旧東京市本郷区に生まれて、すぐに大連に渡って6年間過ごした後、帰国してからは現在の文京区の小学校と中学校に通われました。当時は家の近所に数多の映画館があった時代で、小学校に上がってからは映画に熱中して、学校に許可をとって保護者がいなくても入場可能にしてもらい、堂々とひとりで出入りしていたとか。
武満眞樹:そうみたいですね(笑)。父の母親もすごく映画好きだったようです。
――武満さんが生涯に手掛けた映像のための音楽は100本を超えています。今回このアルバム『波の盆 武満徹 映像音楽集』に収録されたのはそのごく一部ですね。
武満眞樹:父は映画音楽の仕事をとても楽しんでやっていたと思います。劇伴は映像と一体になって完成するもの、と考えていたようで、あまり映像を説明し過ぎないように、どこに音楽をつけ、どこで外すかそのタイミングや、どんな音色を選ぶか、そのためにどんな楽器を使うかということを大事に考えていたようです。むしろどんな曲を書くかといったことは、映画音楽では必ずしもいちばん重要な要素ではないと思っていたのではないでしょうか。なので基本的に、それらが音楽だけで独立してコンサートなどで演奏されることを、本人は想定していなかったと思います。そもそもきちんとスコアが残っているものが少なくて……そういうのをとっておく人ではなかったので。ただ中には、これはいつか演奏会でやろうと思ってまとめてあるものもあって。例えば「訓練と休息の音楽」(映画『ホゼー・トレス』より)、「葬送の音楽」(映画『黒い雨』より)「ワルツ」(『映画『他人の顔』より) の3本からなる『弦楽オーケストラのための「3つの映画音楽」』は、亡くなる前年にスイスのグシュタードで行われた『シネミュージック・フェスティバル』のために、自分で選んで弦楽オーケストラ用に編曲したものです。今回のアルバムはそんな、本人が納得してスコアに残してあったものばかりを集めたもの。父の作品を大変多く演奏してくださっている尾高忠明さんが指揮をしてくださるということで、私も完成を楽しみにしていました。
「勉強しなさい」のかわりに「映画を観なさい」と言われていた
――昨年が没25年だったこともあり、企画コンサートなども目白押しで、若い世代からも武満さんの音楽に注目が集まっていますね。眞樹さんもトークイベントのゲストに呼ばれて、お話する機会も増えたのではないでしょうか。
武満眞樹:正直に言うと生前は父の音楽にあまり興味がなくて、好きなものもあったけれど特にいわゆる現代音楽が苦手で、コンサートとかにも極力行かないようにしていました。でも好きな音楽の仕事をしていた父を幸せな人だな、と思って見ていました。とてもひょうきんで、好奇心旺盛な人でしたね。父親としては煩いことを言わないし、娘としては楽でした。
――親子で音楽について話をすることなどもあったのですか?
武満眞樹:それはもう、しょっちゅう! 現代音楽は苦手でしたが、ポップスとかジャズのジャンルでは父と音楽の趣味は合ったので。晩年、私が映画の世界で仕事をするようになってからは、よく映画の話もしましたし、素晴らしい映画人たちと仕事をしていた父を、改めて幸せな人だな、と思っていました。
――眞樹さんも昔から映画がお好きだったんでしょうね。
武満眞樹:それがそうでもなくて……。日曜日に父と母がご飯を食べながら観た映画の感想とか、あの女優が良かったとか、あの俳優は今、誰それの作品に出ているよとか、夫婦で延々と何時間も楽しそうに話しているのを横で聞きながら呆れていましたよ。世の中にはもっと大事なことがいっぱいあるのに、うちの親は何を考えているんだろうって。中学の頃からは「勉強しなさい」のかわりに「映画を観なさい」って両親から言われるようになって。通っていた学校が厳しくて、帰りに寄り道するときは届け出が必要だったのですが「もし映画館に寄るんだったら適当に書いといてあげるから」って(笑)。それで私もすっかり意地になって、絶対観るものかと思って極力耳を貸さないようにしていたのに、父は「映画を観た方がいいよ」って私の顔を見る度、すれ違う度にぼそっと囁くんです。結局10代の終わりから私も映画館に行くようになるのですが、ずっと親には内緒にしてこっそり通っていましたね。
――本当に武満さんは“シネフィル(映画狂)”レベルの映画ファンでしたね。映画評論家の蓮實重彥との対談での丁々発止のやりとりを読むと面白すぎて、二人の話に引き込まれてしまいました。
武満眞樹:映画に限らず文学も美術も好きで、自分はたまたま音楽の道に進んだけれど、別の道を究めることもできたかも……なんて言ってましたね。特に映画は総合芸術なのでいちばん愛したジャンルだったのではないでしょうか。
――特に沢山の洋画を熱心に観ていらっしゃいますよね。
武満眞樹:父が若い頃はまだ海外旅行も気軽に行けない時代で、憧れも強かったんだと思います。スクリーンを通して海の向こうの風景やライフスタイルに触れていたんでしょうね。今みたいに情報もないから。母も劇中で女性がヘアブラシを使ってカッコよく髪をとかす場面に釘付けになったそうです。
――65歳という若さで逝かれたのが惜しまれます。もう少し長生きされていたら海外の映画監督とも、もっとコラボして洋画もいろいろと手掛けられたのではないでしょうか。1992年公開のジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』のために書いた曲は、残念ながら採用されませんでしたね。
武満眞樹:父が亡くなってからニューヨークでジムに会いましたが、やはりあの決断は正しかったと思うと言っていましたね。私も同意見です。父の音楽がつくとまったく別の作品になっていたかも。