小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード2 マルセイユーカンヌ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード2

エピソード2
マルセイユーカンヌ ♯3

「おいおい、ずいぶん無茶をするんだな」
 息を切らしながら席に戻ってきた紫郎に向かって、村上があきれたように言った。窓から身を乗り出して一部始終を見ていたという。
「あの男、本当に僕をマークしていたんだな。ありがとう。君が教えてくれなければ、どうなっていたか分からない」
「川添君、いったい君は何をやらかしたんだ。特高に追われるなんて……。あいつは特高にしては背広の質が良すぎる気もするが。おい、君は本当に留学生なのか?」
「もちろんだ。映画の勉強に来たんだ」
 紫郎はそれ以上は答えず、フレジュスから隣の席に乗ってきた老人と女の子に話しかけた。
「ボンジュール、ムッシュー。お孫さんですか」
「ああ、ジュリエットっていうんだ。あんた方は中国人かね?」
「いえ、日本人です」
「おお、ジャポネ。私はヒロシゲの浮世絵を1枚持っているよ。昔、ロシアに勝ったときは驚いたが、国際連盟から脱退するなんて、どうなっているんだい、あんた方の国は。さっぱり分からんよ」
 南仏なまりの田舎の老人だからと高をくくっていたわけでもないが、ちゃんと新聞を読んでいる紳士らしい。村上が横で耳をそばだてているから、左翼運動をやって祖国を追い出されてきましたとは言えなかった。
「ジュリエットちゃん、年はいくつだい?」
 紫郎は話題を変えて女の子に言った。彼女は3本の指を立てて「3つ」と答え、お菓子を2つ差し出した。
「えっ、僕たちにくれるの? メルシー」
 カリカリと噛みくだくと、口中にアーモンドの香りが広がった。
「セ・ボン。これは何というお菓子ですか」
「クロッカンっていうんだ。南仏の名物さ」
 老人が答えた。
「どこまで行くんだい?」
「僕はカンヌ、彼はジェノヴァまで行くんです」
 老人はジェノヴァと聞いて急に下を向き、何やらブツブツとつぶやいて舌打ちをした。ムッソリーニという単語だけ聞き取れた。
「ああ、すまない。独り言だ。カンヌはもうすぐだよ。ほら、今日の海は格別に青いぞ。海に寝そべっているような格好の島が2つあるだろう。サント=マルグリット島とサン=トノラ島だ。サン=トノラのワインはうまいぞ。ああ、日本人はワインを飲むのかね? ブドウの酒だよ」
 紫郎が笑って「船で毎日飲んでいました」と答えると、横で村上がふてくされた顔をして肩をすくめた。三等の食堂ではワインは出ないのだった。
 カンヌの街並みが見えてきた。広い入り江を囲む山々のあちこちに白亜の別荘が点々と建っている。紫郎が泊る家は古い港の近くにある豪壮なアパルトマンだと聞いていた。手配してくれたのは、父親代わりの深尾隆太郎だった。
 深尾はフランスに留学する紫郎のために2通の依頼状を送っている。1通は駐フランス大使の佐藤尚武、もう1通がカンヌに暮らしている伊庭簡一宛てだった。伊庭は住友家の発展に尽くした伊庭貞剛の二男だったが、フランス女性と結婚し、カンヌに住んでいた。深尾は紫郎の留学期間を6年と定め、まず南仏カンヌで伊庭家の指導を受けてからパリに出るようにと言いつけていた。
「村上君、ありがとう。君のことは忘れないよ。イタリアでミケランジェロの神髄を感じてくるって言っていたね。僕もフランスでこの国の文化を盗んでくるつもりだ。お元気で」
「うん、君も元気で。ああ、それからあの背広野郎に気をつけることだな。さっきはうまく行ったが、あいつはただ者じゃない。しつこくカンヌまで追ってくるかもしれないぞ」
 紫郎は村上と長い握手を交わし、老人と孫娘に別れを告げて列車を下りた。駅にはレモンとオレンジの花の甘い香りが漂っていた。また富士子の顔が目に浮かんできた。

リュシエンヌ・ボワイエのレコード

 アコーディオンの伴奏に乗って、歌声が聞こえる。よく知っている歌だった。紫郎が幼い頃から慕ってきた深尾家の淑子姉さんが、威彦さんと結婚する前に蓄音機でよくかけていた。パルレ・モア・ダムール。「聞かせてよ愛の言葉を」だ。初めて富士子に会ったとき、誰かに似ていると思ったのだが、あのレコードのジャケットに写っていたリュシエンヌ・ボワイエという歌手に似ているのだった。富士子は今ごろどうしているだろうか。特高の痩せぎすカラスに捕まってしまったのか……。

「やあ、あなたが川添さんですね?」
 カンヌ駅の改札を出ると、彫りの深い顔立ちの若い男が陽気に話しかけてきた。年は紫郎とほとんど変わらないように見える。
「僕はマルセル。伊庭マルセルです」
「川添紫郎です。シローと呼んでください。わざわざ迎えに来てくれたんだね。ありがとう。お世話になります」
 マルセルの笑顔には、南仏の太陽と同じように、裏表のない底抜けの明るさがあった。紫郎は一瞬にしてカンヌという街が好きになった。

(※)「ロンドリ姉妹」の引用は「脂肪の塊/ロンドリ姉妹~モーパッサン傑作選~」(モーパッサン著、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫)より

村井邦彦(Photography by David McClelland)

■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。

吉田俊宏

■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社文化部編集委員 
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。

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