小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード2 マルセイユーカンヌ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード2

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード2では、川添紫郎(浩史)が神戸から長い船旅を経て、1934年のフランス・マルセイユに降り立つ。(編集部)

『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード2
マルセイユーカンヌ ♯1

「さあ、いよいよマルセイユだ」
 川添紫郎は甲板で地中海の風に吹かれていた。
「神戸を出てちょうど30日ね」
 香港をすぎたあたりで仲良くなった森田富士子が言った。彼女も一等の客だった。一等の切符を手にした若い日本人は21歳の紫郎と20歳の富士子だけで、後は初老の夫婦やヨーロッパに帰る白人ばかりだった。すっかり小麦色になった紫郎とは対照的に、彼女はほとんど日焼けしていなかった。
「富士子さん、今日はあの日と同じブラウスだね。それにしても驚いたな、君の勇気には」
「ふふ、服装まで覚えているのね」
「忘れるわけないさ。あの日はその長い髪を女剣士みたいに後ろで結んでいたよね」
 遠くから汽笛が聞こえる。カモメが騒いで、紫郎の声も大きくなった。
「気合を入れるときに結ぶのよ」
「あのときの君はまるでジャンヌ・ダルクだったな」

 2人の乗ったフランス船には恐るべき階級制度が存在していた。一等は個室、二等は4人部屋、三等は大部屋だった。一等、二等の船室は喫水線より上にあるため丸い窓から海が見えるのだが、喫水線の下にある三等に窓はなく、しかもエンジンルームに近いから、船が走り始めるとひどい騒音と熱気に悩まされる。
 二等の甲板にプールがあった。一等の客は自由に使えるが、二等の客が使える時間は限られていた。三等の客にいたってはプールへの立ち入りさえ禁じられていた。
 あの日、あまりの暑さに耐えかねた三等の若い客がこっそりプールに潜入したのである。
 プールサイドに寝そべっていた紫郎はその男をぼんやりと眺め、見かけない顔だなと思っていた。すると1分もしないうちに3人の船員が飛んできて、あっと言う間に上流階級への闖入者を引きずり出してしまった。
 紫郎は半身を起こして身構えた。握りしめた拳に力が入る。あの夜を思い出して、怒りと恐怖が同時に襲ってきたのだ。牛込合羽坂の屋敷に特高が乗り込んできたあの夜……。
「ひどいやつらだ」
 以前の紫郎なら迷わず突撃していったはずだ。どうした、紫郎。正義はどこにある。見て見ぬふりをするのか。もう一人の自分がいきり立った。紫郎は額の汗をぬぐって腰を上げた。
 立ち上がった紫郎の前を大股で風のように横切り、船員たちの前に立ちはだかった背の高い女がいた。それが富士子だった。インド洋と同じ色をしたスカートに純白のブラウスが良く似合っていた。
「その人を放してあげて。代わりに私が三等に行きます。それで文句はないでしょう」
 富士子は海面に砕け散る荒波のように言い放った。紫郎は北斎の「神奈川沖浪裏」を思い出した。あの背の高い女とは少しだけ言葉を交わしたことがあった。森田富士子と名乗り、パリで絵の勉強をすると言っていた。か弱いお嬢さんだろうと思ったが、とんだ勘違いだったようだ。
「ま、待ってくれ。三等には僕が行こう。僕も一等の客だ」
 富士子と船員の間に割って入った紫郎が言った。
 近くで見ていた赤ら顔のフランス人が「ブラボー」と叫んだのを合図に、周囲の客から拍手と歓声が巻き起こった。正義に対する喝さいではなく、退屈しのぎの野次馬だろうと紫郎は思った。
「放っといてくれ。一等の客に同情されるなんて、冗談じゃないぜ」
 船員に腕をつかまれたまま男が叫んだ。彼は自ら進んで連行され、三等の甲板に放りだされた。

神戸とマルセイユを結ぶフランス郵船(Messageries maritimes)のポスター

「あの人ね、捕まった男の人。あの後、また偶然会ったのよ。スエズ運河を通った日だったかな。三等の食堂まで下りていったら、私の目を見ずに話しかけてきたの。ありがとうって言われたわ。本当はうれしかったって」
「へえ、そう。それにしても富士子さんはなぜあんな啖呵を切ったの?」
「うーん。嫌いなのよ、ああいうの。三等だけ差別して、しかも暴力的に排除するなんて。あっ。ねえ見て、マルセイユの港よ」
「うん、やっと着いたね。富士子さん、君はデュマの『モンテ・クリスト伯』を読んだことはあるかい」
「モンテ・クリスト? 『巌窟王』ね。もちろんよ」
「あそこに見えるのがイフ島だよ。主人公が無実の罪で入れられた牢獄がある」
 紫郎は多くの船が行き交う先に浮かぶ白亜の要塞をにらみつけた。
「あら、ずいぶん怖い目をするのね」
「君には何もかも話してしまいたくなるね」
「ねえ、聞かせて」
「ここじゃ、まずいな」
 紫郎は彼女の耳元に近づいてささやいた。長い黒髪からレモンのような香りがした。
「ずっと僕を見ている男がいる。後ろのベンチで本を読んでいるやつさ。気づいたのは3日前だけど、そういえば前から見張られていた気がするんだ。特高かもしれない。きっとそうだ。いつも薄ら笑いを浮かべているけど、目は笑っていない。あれは特高の目だ」
 紫郎は声をひそめていった。
「痩せぎすの30ぐらいの男でしょ。カラスのように黒い服ばかり着ている」
「あいつ、知っているの?」
「知らないわよ。私も薄気味の悪い人だなと思っていたの」
「場所を変えよう」

イフ島

 紫郎は富士子を連れて二等の甲板に下りた。
「あいつ尾行してきたかな」
「大丈夫みたいよ。ねえ、話して。特高警察がどうしたの。誰か捕まったの?」
「捕まったのは僕さ」
 紫郎は2年前、1932年の出来事を富士子に打ち明けた。
 彼は早稲田第一高等学院の学生だった。映画や演劇に入れ込むうちに、左翼運動にかかわるようになった。仲間には後に映画監督として大成する谷口千吉や山本薩夫、フジサンケイグループのトップになる鹿内信隆らがいた。
「仲間たちが僕の家なら大丈夫だろうって言って、マルクスやレーニンの本をたくさん隠していたんだよ。床下につるしたりしてね」
「なぜシローの家なら見つからないと思ったの」
「僕はね、後藤象二郎の孫なんだ」
「後藤って、あの幕末維新の?」
「そう。まあ、訳ありでさ、いろいろあって僕は土佐藩の筆頭家老だった深尾家に引き取られて、養子として育ったんだ。深尾の親父は今や大阪商船の副社長で貴族院議員でもあるから、そんな人の邸宅なら官憲の手も及ぶまいと彼らは考えたんだな」
「でも、特高に踏み込まれたのね」
「誰かが密告したのか、そのあたりは今もって謎なんだけどね。床下から『共産党宣言』とかがわんさと出てきたから、動かぬ証拠だよ。それであのプールの男と同じように家から引きずり出されて、牛込署の留置場にぶち込まれたわけさ。こん棒で殴られて拷問されるって聞いていたから、連行されるときセーターを3枚も重ね着していったんだ」
 深尾家は娘の淑子と結婚したばかりの小島威彦に相談した。小島は哲学者の西田幾多郎を慕って東京帝大から京都帝大哲学科に移り、京大大学院を出た秀才で、文部省の国民精神文化研究所哲学研究室の助手をしていた。
「威彦さんは牛込署まで飛んできてくれて、その足で正木亮という旧知の検事に会いにいったんだよ。正木さんは『モンテ・クリスト伯』の主人公を監獄送りにした検事とは正反対の素晴らしい人なんだ。『囚人もまた人間なり』が持論でね。威彦さんほどのインテリが『最も尊敬する先輩』というだけのことはあるよ。正木さんが手を回してくれて僕は不起訴になり、翌日に釈放されたんだ」
 釈放の条件は「紫郎をフランスに留学させること」だった。
「あなたはラッキーな人ね。さすが後藤象二郎の孫ってところかな。ところで、大人しくフランスに旅立ったんだから、もう特高が川添紫郎をマークする必要はないんじゃないの」
「そう思っていたんだけどね。しつこいやつらだ。まだ僕を疑っているんだよ、きっと。フランスで共産党の連中と合流するんじゃないかとかさ。僕はマルキシズムより映画に興味があるんだ。本当さ。映画や演劇の方が世界を変えられるんじゃないかという気さえしているんだ」
「あら、ずいぶん理想主義なのね」
「理想がなくちゃ、現実は変わらないさ。このままカンヌに行く予定だったんだけど、特高さんなら先刻ご承知だろうな。よし、予定変更だ。富士子さん、一緒にパリへ行っていいかな? 道中で僕の考えを話すよ」
 紫郎がそう言った瞬間、船が大きく揺れた。どうやら着岸したようだ。富士子は目を見開いて、困った顔をして首を振っている。エンジンが止まった。
「富士子さん、僕と一緒では嫌かい? あの特高のカラスはきっと先回りしてカンヌ行きの汽車に乗るはずだ」
 マルセイユの空は地中海と同じくらい青く、雲はひとつもなかった。しかし、紫郎の心には濃い霧がかかっていた。石灰質の白い丘の上にそびえ立つノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂の鐘楼が青空に浮かんで見える。しかし観光している暇はない。一刻も早くカラスの尾行から逃れなければ。

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