『ブギウギ』に実名登場の李香蘭とは? 笠置シヅ子&服部良一との深い縁を解説
上海での「夜来香ラプソディー」
日本人だと伏せて国策映画に出演することに疲れていた李香蘭は、抗日意識を鼓舞する中国映画『萬世流芳』(1943年)に出演。これが大ヒットとなって中国の民衆にも受け入れられた。その翌年、満映を退社して上海に移住する。このとき、レコード会社が李香蘭のために新進作家だった黎錦光に作曲を依頼して完成したのが「夜来香」である。明るいメロディが人気となり、たちまち中国全土で大ヒットとなった。
そんな折、服部良一が報道班員として上海陸軍報道部に配属される。目的は「文化工作」だったが、軍歌が嫌いだった服部にとって渡りに舟だった。さっそく上海で李香蘭のリサイタルが企画される。「ラプソディー・イン・ブルー」で知られるジョージ・ガーシュインのようなシンフォニック・ジャズをやってみたいと熱望していた服部は、李香蘭と上海交響楽団という世界水準のオーケストラを使って「夜来香幻想曲(ラプソディー)」を企画する。李香蘭は100人のオーケストラをバックに「夜来香」をはじめ、日本、欧米、中国の歌曲を次々と歌い、リサイタルは大成功を収めた。服部は後年「戦時下の日本では到底できなかったガーシュインの手法を取りいれた実験を、思う存分やってみました」と振り返っている。
「ブギウギ」の実験
12分に及ぶ大作「夜来香幻想曲」では、もう一つの実験が行われていた。ブギウギの実験である。アメリカで生まれた8ビートのブギに注目していた服部は、「ビューグル・コール・ブギウギ」の楽譜を入手して研究に余念がなかった。その研究の成果を「夜来香幻想曲」の最後の部分に「夜来香ブギウギ」として入れ込んだのだ。
李香蘭は練習で「なんだかうたいにくい。お尻がむずむずしてきて、じっと立ったままではうたえない」と訴えた。それを聞いた服部は胸中で会心の笑みを浮かべたという。「それじゃ“気を付け”の姿勢ではなく、リズムのとおりに体を自由に動かしながらうたってごらん」。実に『ブギウギ』ふうのエピソードである。本番では「夜来香ブギウギ」に合わせて、中国人の観客もリズムにあわせて体を動かしていた。戦後、この実験が笠置シヅ子(福来スズ子)の日本中を揺るがす大ヒット曲「東京ブギウギ」につながっていく。
笠置シヅ子と李香蘭
大阪で育った歌が大好きな少女と、奉天で育った歌が大好きな少女の歩みは、どこか重なり合い、まったく対照的でもある。李香蘭が大ヒットした『白蘭の歌』で服部良一と出会ったのも、笠置シヅ子が「ラッパの娘」で“スウィングの女王”と称されるようになったのも、同じ1939年のこと。戦争が激化すると軍歌を歌わない笠置シヅ子は仕事が減ったが、李香蘭は戦争に翻弄されながら名を高めていった。
日本の敗戦後、李香蘭は漢奸(祖国を裏切った中国人)の罪で銃殺されるのではないかと報じられたが、日本人であることが証明されて国外追放処分を受ける。日本に来てからは家族を養うために山口淑子として女優活動を再開し、アメリカに渡ってブロードウェイの舞台にも主演した。一時結婚によって引退したものの、ワイドショーの司会を経て、参議院議員へと転身した。一方、笠置シヅ子は「東京ブギウギ」の大ヒットで国民的スターになるが、1957年(昭和32年)に歌手廃業を宣言。一人娘を育てるため、地味な女優の仕事をコツコツと続けていった。結局、二人が共演することは一度もなかった。
ところで、『ブギウギ』にはスズ子、羽鳥をはじめ、実在の人物をモデルにしたキャラクターが数多く登場している。そんな中、実名で登場するのは李香蘭と黎錦光の二人のみである。どれだけの出番が与えられるのか、実名であることにどのような意味があるのかはまだわからない。服部良一によって才能を引き出された、もう一人の歌うスターの登場を見守りたい。
参考
『李香蘭 私の半生』山口淑子、藤原作弥・著(新潮文庫)
■放送情報
NHK連続テレビ小説『ブギウギ』
総合:午前8:00〜8:15、(再放送)12:45〜13:00
BSプレミアム・BS4K:7:30〜7:45、(再放送)11:00 〜11:15
出演:趣里、水上恒司、草彅剛、蒼井優、菊地凛子、水川あさみ、柳葉敏郎ほか
脚本:足立紳、櫻井剛
制作統括:福岡利武、櫻井壮一
プロデューサー:橋爪國臣
演出:福井充広、鈴木航、二見大輔、泉並敬眞、盆子原誠ほか
写真提供=NHK