『あんぱん』のモデル・小松暢&やなせたかしとは? 夫婦の激動の生涯をたどる
3月31日から放送が始まるNHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、『アンパンマン』を生み出した漫画家で絵本作家のやなせたかし(柳瀬嵩)とその妻・暢をモデルにした物語だ。やなせ夫妻はどんな生涯を送ったのか、予習をかねておさらいしたい。
『あんぱん』のヒロインは朝田のぶ(今田美桜/幼少期:永瀬ゆずな)。後にやなせと結婚する小松暢がモデルである。1918年(大正7年)生まれで、やなせより1歳年上にあたる(学年は同じ)。
暢は日本の日本最大の総合商社・鈴木商店で働く父と母の間に大阪で生まれた。このときの姓は池田である。幼い頃から毛皮のコートを着るなど、モダンな暮らしぶりだったという。父が亡くなった後も大阪で育ち、女学校時代は「韋駄天おのぶ」の異名を持つ短距離ランナーとして鳴らした。
女学校を卒業して家を出た暢は、東京で6歳上の日本郵船に勤める小松総一郎と出会って結婚する。父も総一朗も高知出身だった。新婚早々、第二次世界大戦が始まって総一郎は召集される。終戦は高知で迎えたが、戦争から帰った総一郎は病気で亡くなってしまった。一人取り残された暢は、夫が遺したライカのカメラを手に、高知新聞社に入社。『月刊高知』の女性記者になった。数カ月後に入社し、同じ部署に配属されてきたのがやなせである。
真向かいの席に座ったやなせは、あっという間に暢に好意を持つようになる。やなせによると暢は「美少女タイプ」で「一見色白でかよわそうに見える」が「体育会系の硬派」。雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と喜び、広告の集金で舐めた態度をとる相手にハンドバックを投げつけて「きちんと払いなさいよ」と啖呵を切る暢の姿を見て、やなせはすっかり好きになってしまった。暢の姿はまさに「ハチキン(土佐弁で男勝りの女性のこと)」である。
暢も優しくて穏やかなやなせのことが好きになっていた。優柔不断なやなせに暢から求愛する形でふたりは交際を始めるが、東京の代議士に秘書になってほしいと頼まれた暢はあっという間に高知新聞社を退社して上京してしまう。振られたと思って淋しい思いで暮らしていたやなせは、南海大地震に遭遇する。しかし、地震の最中でもぐっすり眠っていて寝坊したやなせはジャーナリスト不適格だと自覚し、デザイナーか漫画家を志望して上京を決意する。やなせが28歳のときのことである。
やなせは東京で父・清、母・登喜子の長男として生まれた。「上海帰りのモダンボーイ」だった清は、やなせが5歳のときに朝日新聞の記者として赴いた中国・アモイで客死。一家は父の故郷である高知に移住する。弟の千尋は開業医だった伯父(父の兄)の寛に引き取られ、やがて登喜子が再婚したため、やなせも寛のもとに引き取られる。寛と妻のキミはやなせと千尋を我が子同然に可愛がった。しかし、美しかった母との別れは少年だったやなせの心に暗い影を落とした。
上京してデザインを学んだやなせは、東京田辺製薬宣伝部に就職したが、徴兵されて軍隊に入る。軍隊では顔が変形するほど殴られ続けたが、自分が軍曹になってからは初年兵を殴ったりしなかった。日中戦争、太平洋戦争が始まると、中国へ送られたが、暗号解読が仕事だったため、実際に銃を撃つことはなかったという。絵が得意なやなせは宣撫班(占領地の敵対心をやわらげて治安の維持をはかる仕事)として現地の人々に紙芝居を作って披露することもあった。
仲の良かった弟の千尋は、京都帝国大学(京都大学)で学んだ後、海軍の少尉になっていた。危険な任務に志願した千尋は、小倉の部隊にいたやなせに会いにきて別れの挨拶をしている。1944年、千尋は南方の海域で乗船が撃沈されて亡くなった。終戦後、高知に戻ったやなせは弟の死を知り、自分が信じていた「正義」がひっくり返ってしまったことを実感する。「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」と考えるようになったやなせは、ひっくり返ることのない正義は何かを考えるようになる。