『マトリックス』はなぜ“画期的”だったのか バレットタイム演出が生んだ別のリアリズム

『マトリックス』はなぜ“画期的”だったのか

 長らく映画批評を支配してきたのは、写真の「客観的な記録性(インデックス性)」に依拠した自然主義的リアリズムだ。現実を写し取ることこそ映画であり、優れた傑作は現実を見つめるものだとされてきた。

 そのような考え方は、映画だけに固有のものではなかった。文学の世界においても、純文学と呼ばれるものは、現実を写生することを目指してきた。だが、それはポストモダンの時代に急速に変化し、別のリアリズムの可能性を文学は模索するようになった。

 評論家の大塚英志氏は、その新たなリアリズムを「まんが・アニメ的リアリズム」と名付けた。「まんが・アニメ的リアリズム」は、簡単に言うと、現実の写生を目指した自然主義的リアリズムに対し、アニメやマンガのような虚構世界を描写することを目指すものだ。主にライトノベルの作品群に対して大塚はこのリアリズムを見出したが、その出発点を、SF小説家、新井素子の漏らした言葉「ルパン三世の活字版を書きたかった」という発言に求めている。

「この新井素子さんの思いつきは実は日本文学史上、画期的なことだったのです。誰もが現実のような小説を書くことが当たり前だと思っていたのに、彼女はアニメのような小説を書こうとしたのです。だから大袈裟に言ってしまえば彼女は自然主義的リアリズムという近代日本の小説の約束事の外側にあっさりと足を踏み出してしまったのです」(※1)

 この新井素子氏の発言に相当するような動きを映画の世界に求めると、「アニメのような実写映画を作った」ウォシャウスキー姉妹がそれに該当するかもしれない。

 なぜなら、カメラのインデックス性によって、現実を描くことが当たり前だと考えられていた映画の世界で、アニメのような虚構、仮想世界を描写することに乗り出し、成功を収めたのだから。

 新井素子が文学の世界で新しいリアリズムを生んだとすれば、ウォシャウスキーは映画の世界に、とりわけ実写映画の世界に、新しいリアリズムを生み出したのだ。

 そして、そのことは映画史の中で大変に重要な意味を持つ。

『マトリックス』が目指したのは現実の再現でなく仮想世界の再現

 先に記した、文学における自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムのような対比関係が、本当に映画にあるのか、念のため確認しておく。

 1999年に、深川一之氏が『映画学』誌上で発表した「ロトスコープとリアル」はこの一文ではじまる。

「次のような考えは現在でも大勢であるように思われる。現実の光景を再現することが(実写)映画の原理であり、架空の光景をつくりだすことがアニメーションの原理である。ゆえに、アニメーションと映画は、互いにまったく別の意味を担った媒体である」(※2)

 似たような言説は数多くなされているが、あえてアニメのような実写映画を目指して作られた『マトリックス』1作目が公開された1999年の言説を取り上げてみた。少なくともこの文章が書かれた1999年にはそう考えられていて、『マトリックス』はそれを覆したのだ。

 『マトリックス』が、その作品内で描くのは仮想世界だ。人々は機械が作り上げた「マトリックス」と呼ばれる仮想世界に生かされている。そして、大半の人間はそのことに気が付いていない。気が付くことができた少数の人間は、機械の支配から人を解放するために戦う。

 物語の多くがその仮想世界での戦いに費やされる。3DCGやワイヤーワークを駆使し、仮想世界ならではの非現実的なアクションシークエンス、まるでアニメのような動きを実写映画で実現させ、2人の監督たちが考える仮想世界のリアリティを描き出そうとした。

 3DCGなどの特殊技術を駆使した映像は、『マトリックス』以前にも数多く存在した。その意味で『マトリックス』は特別ではないかもしれない。だが、『マトリックス』以前の作品群は、3DCGなどの技術を現実の再現、あるいは非現実なものを現実世界でも馴染んで見えるように見えることを目指して使用したのに対し、『マトリックス』は、もう一つの現実である仮想世界を描写するために用いた。現実の描写を目指す自然主義的リアリズムではなく、仮想世界の描写を目指しているという点で、『マトリックス』はまんが・アニメ的リアリズムに根差した実写映画と言える。

 そして、『マトリックス』が画期的だったのは、映画における自然主義的リアリズムの根拠である写真の客観的な記録性(インデックス性)を終わらせたことにある。

マトリックス レザレクションズ

 再び、深川氏の言説に戻る。深川氏は同記事でデジタルがもたらす、映像文化の変化についてこのように記している。

「デジタル機器によって生みだされたバーチャル映像が、被写体なしで、完全に写真を模倣し得るなら、写真映像の再現能力そのものに疑念が差し挟まれることになる。そのとき、写真映像は再現性を支える規範としての地位を失うだろう。それは、すでに現実のことであるかもしれないのだ」(※3)

 深川氏がこの原稿を書いた時点で『マトリックス』を視聴していたのかどうかはわからないが(この原稿はそもそもアニメーション論である)、まるで、『マトリックス』のことを言っているように思えてくる。

 『マトリックス』は、機械によって生み出された仮想世界だ。それはデジタル技術で、被写体なしで写真のような模倣性を実現した世界と言える。物語世界においては写真映像の再現能力は絶対のものではなくなっている。そして、そのような物語を通して、メタ的に、来たるべくデジタル時代には、デジタル技術が写真レベルの再現性を実現し、写真映像はインデックス性を担保できなくなるのだと示唆したわけだ。

 最新作『マトリックス レザレクションズ』(以下、『レザレクションズ』)では、デジタル技術はさらに発展しており、そのことをまざまざと映像によって見せつけている。あの映画を観て、どのシーンがロケ撮影で、どのシーンがCGなのかを判定することは不可能だろう。映像のテクスチャーレベルでは、本物と偽物の区別はできなそうにない。

 さらに、『レザレクションズ』では、人物の見た目が人によって異なる世界として描かれている。キアヌ・リーブス演じるトーマス・アンダーソンの見た目は、長髪の髭を生やした風貌で、まるで『ジョン・ウィック』のようだ。だが、それはトーマス本人にはそう見えているだけで、他の人には老人に見えている。テクスチャーレベルでは、どっちが本当の姿なのか判別できない(物語的には、どっちも虚構のアバターなわけだが)。

 『マトリックス』シリーズは、そのように写真のような本物の世界が実は虚構であるという点から始まるが、物語のうえでも、映像のうえでもそのことに意識的であり、作品の題材と手法、そしてテーマが見事に合致している。

 そして、現実を描写する自然主義的リアリズムではなく、虚構を描写するその新たなリアリズムは、現実と虚構の境目が限りなく無くなりつつある現代を生きる人々にとって、切実なものとして感じられている。そのことを説得力を持って描いたからこそ『マトリックス』は画期的な作品だった。

 そして、現実とは異なる仮想世界のリアリズムを、物語や言葉のレイヤーだけでなく、映像のレイヤーとして世界に見せつけたのが「バレットタイム」という演出だったのだ。

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