『マトリックス』はなぜ“画期的”だったのか バレットタイム演出が生んだ別のリアリズム

『マトリックス』はなぜ“画期的”だったのか

バレットタイムと映像の原点

 バレットタイムは、止まっている、もしくはスローモーションで動く対象をカメラが回り込むように見せるテクニックだ。『マトリックス』1作目で、ネオが上半身をのけぞらしながら弾丸を避けるシーンは、鮮烈な印象を残し、『マトリックス』を代表するシーンとして今日も有名だ。そのあまりの格好良さに様々な作品で模倣され、この手法は一般化した。

 バレットタイムは何を目指していたのだろうか。一言で言うと、アニメの回り込み作画のような映像を実写でやりたかったのだろう(※4)。ただ、突っ立っている人間を回り込んで見せるなら、ただ、カメラにその人物の周囲を回らせればいい。だが、躍動的な瞬間のポーズを素早く回り込んで見せるには、実写の映像では困難だった。少なくとも映像用のカメラでは。

マトリックス レザレクションズ

 よく知られていることだが、『マトリックス』1作目のバレットタイムを作り出すために、ウォシャウスキー姉妹と視覚効果監修のジョン・ゲイターは約120台の静止画のカメラを並べて連続撮影するという手法を選択した。その1枚1枚の写真を後から編集でつないで、あのような不思議な時間間隔の映像を生み出したのだ。あのバレットタイムは、映像ではなく写真の連続なのである。

 だが、映像はそもそも写真の連続である。映像の原理を学んだことがある人なら誰でも知っていることだ。1秒24コマからなる写真の連続が映像の最小構成要素である。

 通常の動画カメラはフィルムを縦に回転させて映像を作りだすが、バレットタイムは120台の静止画カメラを横に並べる逆転の発想から生まれている。

 この発想の原点には、映画前史のとある人物の存在がある。ウォシャウスキーとジョン・ゲイターは、エドワード・マイブリッジが1878年に発表した連続写真「動く馬」にヒントを得たと語っている(※5)。

 これは、写真用の撮影機を等間隔に置いて、馬の疾走を撮影したものだ。この写真がヒントとなってエジソンはキネトスコープを発明し、映画に発展していったという話は有名だ。

 ウォシャウスキーは、『スピード・レーサー』でマイブリッジへのオマージュをささげている。レースコースの壁にシマウマの連続写真が並べられているシーンがある。そこを猛スピードで走る車に合わせてカメラが移動すると、壁のシマウマも動いて見えるのだ(※6)。

 ウォシャウスキーは、アニメのような映像を実写で作るために映像の原点に立ち戻ったと言える。なぜそれは必要だったのか、それは映像の仕組みを考えれば必然である。

 

 アメリカの映画批評家トム・ガニングは、映画の技術的な本質は「不連続な瞬間(フレーム)から連続した動きを生産すること」であり、それは「写真とアニメーションが共有している土台」であるとする。不連続な瞬間によって時間を操作すること。それが映像の本質なのだとガニングは言う。

「私が指摘したいのは、イメージの起源が手描きのものなのか、それとも写真的なものであって結果的にインデックス的なものと関係しているのかに基づいて、アニメーションといわゆる実写映画との差異を主張することではなく、むしろそれらが動くイメージという共通の特質とともに時間の変容という共通性――すなわち、機械の不連続性を通じて、瞬間の拍動を創出すること――を持っていることである」(※7)

 このガニングの指摘で重要なのは、実写であれアニメーションであれ、映像とは「時間の変容」という特徴を持っているという点と、その時間の変容は瞬間の積み重ねによって生まれるのだとしている点だ。

 ところで、マイブリッジは写真家として知られているが、彼は決して動くイメージを作りたくて、連続写真を撮影したわけではない。むしろ、彼は時間を止めて馬の動きの正確性を知ろうとしたのだ。

マトリックス レザレクションズ

 動くイメージである映像のヒントになったのが、動きを止めるという正反対の行為だったというのは面白い話だ。そして、時間を止めるという点こそ『マトリックス』のバレットタイムにおいて最も重要なポイントでもある。

 あの映像は、ネオの動きを止めている(実際にはゆっくりスローで動いている)。冒頭のトリニティが両手を広げてジャンプキックするカットでは完全に止まっている。だが、カメラ=視点は猛スピードでその周りを動いている。ここには、2つの時間が流れている。一方は時間が止まり、一方は時間が素早く流れるという、「時間の変容」がここに表れている。

 『レザレクションズ』で、アナリストがバレットタイムを揶揄するような振舞いを見せるシーンがある。「バレットタイム!」とアナリストが言うと、ネオやトリニティ、弾丸までも動きが止まり、アナリストだけが空間を自由に動き回る。止まっているネオたちと動けるアナリストはそれぞれ異なる時間を生きている。あのシーンは、バレットタイムの本質的な部分、時間の二重性をメタ的に言及したシーンと言える。

 時間も空間も思いのままに創造し、変容させる欲望。それは主にアニメーションの世界で実践されてきた。対して、実写映画は、インデックス性の原則によって現実の空間と時間を切り取ることに腐心してきた。しかし、マイブリッジを参照し、バレットタイムを「実写映画」の枠組みで生み出した『マトリックス』が示したのは、映像の欲望とは、時間を変容し創造することだということなのだ。1秒24コマで現実を切り取るインデックス性というのは、創出可能な時間間隔の一例に過ぎない。

 映像は現実の光景を再現するインデックス性こそが映画だという言説は、ある意味、その一例に過ぎない時間間隔に映像を閉じ込めていたのではないか。そして、バレットタイムは、元々映像に備わっていた「時間の変容」の可能性を再び取り戻させ、映像の原初の欲望に立ち戻っていると言える。

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