小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

20世紀から21世紀の“画面”の映画史

草創期の「明るい画面」にもたらしたヘンリー・小谷の変革

 さて、以上までの論述で、コロナ禍を前後する21世紀の国内外の映画に「明るい画面」と「暗い画面」の到来という不可逆的な変化が起こってきており、それが現代映画を知るうえで非常に示唆に富むということが、さしあたりおわかりになっていただけたかと思う。そして、本稿では連載第4回を中心に、そのふたつの画面の対比を歴史的にも戦後から現代にいたる流れとして跡づけてみたのだった。

 ここまでで、この連載でのぼくの目的はだいたい達成できたのだが、本稿の最後に、この点をより広く俯瞰して一連の議論を補強することで締め括ることとしたい。

 ここで参照に値するのが、おそらくは日本映画研究者の宮尾大輔によって提起された「影の美学」と、同じく映画史やメディア史の研究者である滝浪佑紀が定式化する「<明るさの映画>」というふたつの議論である。

 たとえばよく知られるように、COVID-19が猖獗を極める現在からほぼ正確に1世紀を遡る1918年から20年にかけての時期にも、「スペイン風邪」という未曾有のパンデミックが世界的に起きていた。またつけ加えれば、(約10年の誤差はあるものの)やはりほぼ同時期には日本で大規模な震災も起きている。きわめて興味深いことに、いわば20世紀における「新しい日常」が幕を開けた1920年代から30年代にかけての日本(やハリウッド)の映画にも、じつは2020年代のいまと似たような「明るい画面」と「暗い画面」の興亡がはっきりと確認できるのである。

 映画における照明法の変遷というユニークな視点から新たに日本映画史の書き換えを試みた宮尾によれば、現代のコロナ禍から正確に100年前の1920年に、日本映画の画面を枠づける明暗表現にある決定的な変革がもたらされたという。

 この年に、1910年代から草創期のハリウッドでカメラマンとして活躍していたヘンリー・小谷(小谷倉市)が同年に創立された松竹キネマ(現在の松竹)の蒲田撮影所の撮影技師長として迎えられたことが、それであった。小谷は1922年に松竹を退社するまでのわずか2年のあいだに、日本の映画業界にハリウッド仕込みの撮影や編集技法、とりわけ立体的な照明法をつぎつぎともたらし、日本映画の画面を劇的に進化させたのだった。

 そもそもそれ以前の草創期(1910年代)の日本映画の「画面」は、きわめて単調な「明るさ」だけが支配するものだった。たとえば、日本で最初の職業映画監督であり「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の遺した映画製作にまつわる有名なモットーに「一.ヌケ、二.スジ」がある(現在では「一.スジ、二.ヌケ、三.ドウサ」という言い方が一般的だが、宮尾によれば牧野の本来の表現は違っていた)。ここで牧野が映画にとってもっとも大事な要素だという「ヌケ」とは「画面の抜け」、要するに撮影・現像の技術による「画面の見やすさ=明るさ」のことであった。そこで当時の日本映画は歌舞伎の照明法の影響を受けた平板な正面からのライティング(まだレフ板の正確な使い方さえ知られていなかった)、光と影のコントラストの弱い照明法による、単調でフラットな「明るい画面」しか存在しなかった。そこに小谷がハリウッド直輸入のハーフトーンのグラデーションを伴った先進的な照明法(スリー・ポイント・ライティング)を導入し、日本映画の画面を近代化していったのである。

 その意味で、日本映画史では1920年代においてはじめて、「明るい画面」と「暗い画面」のコントラスト(グラデーション)が本格的に形作られるようになったといえるだろう。ここから、日本の映画文化、というよりも映像文化全体のなかで「明るさ」と「暗さ」をめぐる独特の文化的磁場が姿を現していくのである。

「明るく楽しい」蒲田調の「明るい画面」

 たとえばまず、先の小谷が日本にハリウッド由来の繊細な照明設計の技術を持ち込んだとはいっても、1920~30年代の日本映画のトップに君臨していた松竹の映画が、基本的には草創期の牧野的な画面を引き継いだ「明るい画面」であったことも重要である。

 その「明るさ」を象徴する典型的なジャンルが、なんといっても1924年に蒲田撮影所長に就任した名プロデューサー・城戸四郎が推進した「松竹蒲田調」と称された戦間期の一群の現代劇だ。蒲田調とは、それまでの松竹映画の主流だった保守的スタイルの新派メロドラマとは異なる、当時の近代化する東京の郊外を舞台にした、明朗快活で洗練されたモダンなスタイルを指す。小津安二郎監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)をはじめとするいわゆる「小市民映画」が有名だが、ほかにも牛原虚彦監督と鈴木伝明主演のコンビによるスポーツ青春映画、斎藤寅次郎監督のナンセンスコメディなどが続々と作られた。そして、そうした松竹蒲田調のスローガンが、ほかならぬ「明るく楽しい松竹映画」だったのである。それは、「松竹としては人生をあたたかく希望を持つた明るさで見ようとする」(『日本映画伝――映画製作者の記録』文藝春秋新社、1956年、40頁)という城戸の表明からも如実に窺われる。

 さらに宮尾によれば、この蒲田調はそうした気分(趣味)としての「明るさ」のみならず、撮影=画面の「明るさ」をも意味していた。そして、蒲田調を作り上げた松竹のカメラマンたちが理想としていたのが、彼らが「パラマウント調」と呼んで尊敬していたハリウッドメジャーのパラマウントの映画が印象的に設計していた美しいハイ・キー・ライティングの画調だったのである。そして、このパラマウント(正確にはその前身会社のフェーマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ)こそ、ヘンリー・小谷が所属し、巨匠セシル・B・デミルらのもとで「ラスキー・ライティング」と呼ばれる照明法を学んだ撮影所であった。そして、この蒲田調の「明るい画面」が林長二郎(のちの長谷川一夫)の時代劇映画の画面作りなどにも繋がっていくことになるのだ。

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