『のび太の絵世界物語』は“ドラえもん愛”あふれる傑作だ よみがえった“藤子・F・不二雄感”

2024年は藤子・F・不二雄の生誕90周年イヤーであり、2025年は『映画ドラえもん』シリーズの45周年。長く続く作品ともなれば頻繁にアニバーサリーイヤーが訪れるのは当然ではあるし、5年刻みで“周年記念作品”と銘打たれてきているわけだが(前回の40周年はコロナ禍による公開延期があったので少々お祭りムードは薄かったように思える)、てんとう虫コミックスの巻数とおなじ“45”という数字は『ドラえもん』という作品において特別なものといえよう。
同時に今年は、アニメとしての『ドラえもん』においても大きな意味をもつ年である。2024年7月に小原乃梨子さんが、9月には大山のぶ代さんがこの世を去った。改めて説明するまでもなく、『ドラえもん』というアニメを国民的作品へと昇華させた立役者であるお二人がいない世界で初めて公開される『映画ドラえもん』が、今回の『のび太の絵世界物語』ということになるのだ。
よくよく考えてみれば、2025年は現行の声優陣に変わってからちょうど20年が経つ節目の年だ。旧声優陣の『ドラえもん』に育てられた世代である筆者は、かなり長いこと新しい声に馴染むことができず、一時は『ドラえもん』から離れていた時期もあったのだが、さすがにもう慣れてはきた。毎年3月になれば(こうして書かせてもらっているように、半分仕事ではあるのだが)映画館に新作を観に行く習慣も復活したし、テレビ版を観る機会も圧倒的に増えた。とはいえ、近年の『映画ドラえもん』にまったくの不満がなかったわけではない。
もっともそれは、大人になってから観る作品という点で仕方ないことかもしれないが、子どもの頃に『映画ドラえもん』で味わった純然としたワクワク感や、“藤子・F・不二雄感”のようなものが、どうにも薄いと感じてきたからである。ところが今年の『絵世界物語』は、そうして懐古主義や原理主義のフィルターをいとも容易く吹き飛ばすほど、明らかに別格な作品であった。

過去の作品との共通性や既視感も、単なる焼き直しにせずに新たな物語を紡ぐための動力として機能させ、前年の作品で不完全燃焼であったひみつ道具の使い方もお見事。メインターゲットである子どもたちにも刺さるエッセンスを随所に散りばめつつ、絵画の知識など、この作品をきっかけに子どもの世界を広げてくれる丁寧な題材との向き合い方がなされている。そして何より、作り手たちがドラえもんのことを、藤子・F・不二雄のことを好きだということがひしひしと伝わってくる。こんなに魅力的な『映画ドラえもん』はいったい何年ぶりだろうか。
“絵画に描かれた世界で冒険を繰り広げる”というプロットを見た時に連想していたのは、もちろん『映画ドラえもん のび太のドラビアンナイト』である。同作では絵本はいりこみぐつで絵本の世界へと入り、アラビアンナイトの世界でその靴を失くしてしまったしずかちゃんを助け出すため、ドラえもんたちは現実世界の過去の時代へとタイムマシンで向かって冒険を繰り広げた。『ドラえもん』よりも小さい頃に慣れ親しんだような絵本の世界が、現実とつながっているのだと示してくれた同作の魅力は、たしかに今作でも健在であった。

はいりこみライトという道具を使って絵画の世界へと入り、そこからひょんなきっかけで時空を超えて、現実の13世紀のヨーロッパの小国へと辿り着く。そこは歴史から消された国であり、その直前にのび太たちがテレビや新聞で見た“謎の絵画”に描かれていた光景が広がっている。一枚の絵画も数多の物語と同様、どこかの場所やどこかの時代、あるいはそこで生きた人間の記憶や思い出や想像の一部を切り取った記録であり、現実とも如実につながっているもの。もちろんそれが現実から見て架空の世界であっても、映画のなかの現実とリンクしていれば同じことだ。





















