小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

21世紀映画の「明るい画面」と「暗い画面」

 この連載の第1回で、ぼくはつぎのようなことを述べていた。

 20世紀から21世紀にいたる映画の画面には、「明るい画面」と「暗い画面」と呼べるようなふたつの対照的な傾向(系譜)がある、そして、2020年代の「新しい日常」の映画では、そのふたつの画面の違いが顕著に現れてくるだろう、と。

 まず、「暗い画面」にかんしては、第2回を中心に、深田晃司監督の『本気のしるし 劇場版』(2020年)や三宅唱監督の『呪怨:呪いの家』(2020年)、ペドロ・コスタ監督の『ヴィタリナ』(2019年)などの作品群を例に見てきた(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)。コロナ禍のstay homeを露悪的に絵に描いたかのように薄暗い「密室」に世界が閉じ込められているこれらの映画では、――グレアム・ハーマンのポストヒューマンの哲学のように――「つながり」や連続性よりはむしろ断絶や孤独、非連続性の要素が過剰に前景化されている。

『本気のしるし 劇場版』(c)星里もちる・小学館/メ~テレ

 こうした近年の映画の「暗い画面」たちは、ぼくの見るところでは、早くはゼロ年代の後半くらいから現代の映画やアニメーションの世界で台頭するようになった「明るい画面」の作品たちへのある種の対抗として理解できるものである。前回(第4回 大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る)で中心的に検討したその「明るい画面」の映画とは、新海誠や京都アニメーションのアニメ、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』(2019年)、トレイ・エドワード・シュルツ監督の『WAVES/ウェイブス』(2019年)、そして、ジョージ・クルーニー監督・主演の『ミッドナイト・スカイ』(2020年)といった作品群に典型的に表れている。あるいは、それは第3回で取り上げた小野勝巳監督のテレビアニメ『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima‬(2020年)が示すような奥行きを欠いたフラットな画面にもいえるだろう。

『ミッドサマー』(c)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.

 そして、こうした現代映画の「明るい画面」の背景にはおもに、メディア史と映画史が絡まりあったふたつの文脈がかかわっていることも前回までで論じてきた。

 ひとつは、現代の「暗い画面」の映画たちが断絶や非連続性のイメージを打ち出していたように、これら「明るい画面」の映画たちはInstagramやSpotify、あるいはNetflixといった「つながり」=連続性や接続のイメージに基づくデジタルデバイス特有の「画面」の延長上にあるということだ。そしてもうひとつは前回見たように、ポストシネマ的とも呼べるそれらの「画面」は、1970年代の大林宣彦から1990年代の岩井俊二へと繋がる、「オルタナティヴ」な日本映画史の延長上にも捉えられるということである。すなわち、現代日本映画史では、撮影所システムの機能不全に伴って登場したテレビ的な「明るく」「わかりやすい」新たな「画面」に対して、あえて「暗く」「わかりにくい」「画面」を志向し、現代映画的な倫理を模索する監督たちの系譜が見出される。その「暗い画面」の現代映画史はいわばシネフィル的な映画批評における一種の正統的な系譜を形作る(その流れに、たとえば黒沢清監督『スパイの妻』[2020年]の「密室」や「暗い画面」もある)。しかし、現代の「明るい画面」の映画作家たちとは、そうした系譜からはさらに一線を画し、もうひとつのポストシネマ的な可能性を目指しているのではないだろうか、というのがぼくの仮説だ。「明るい画面」の先駆的作家である岩井俊二のZoom映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語 劇場版』(2020年)の切り返しのないフラットな画面も、アニメ『ヒプマイ』同様、この「明るい画面」のパラダイムのうえにある。

「暗い画面」を取り巻くダークな思想群

 ところで、21世紀映画の「暗い画面」について、第2回でポストヒューマニティーズの哲学に含まれるハーマンや、そのルーツのひとつと目されるA・N・ホワイトヘッドといった思想家たちの議論を参照して論じた(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)。そこで、画面の「暗さ」といえば、読者のなかにはこれらの思想的文脈ともごく近い、近年脚光を浴びているいくつかの思想的動向をすぐに連想した方々もいるかもしれない。

 まずひとつは、アメリカの哲学者アンドリュー・カルプがジル・ドゥルーズの哲学について記した2016年の著作『ダーク・ドゥルーズ』である。カルプの本書での主張をこの連載の論旨に沿って要約することは難しいが、関連する部分だけ取り出すならば、ここでカルプは従来のドゥルーズ哲学解釈が描くリゾーム的かつ生産的な接続や連続性のイメージを否定し(彼はそれを「繋がり至上主義」と名づける)、破壊や憎しみといった「闇のドゥルーズ」を対置する。「喜びのドゥルーズ」と彼が呼ぶドゥルーズ思想の「繋がり至上主義」を批判するその態度は、繰り返すように、「つながり」や連続性に断絶や非連続性を対立させようとする深田やコスタの「暗い画面」の映画と呼応しているように見える(ちなみに、こうした『ダーク・ドゥルーズ』の観点は、本書の邦訳の帯文を手掛けている哲学者の千葉雅也のドゥルーズ論とも重なる)。

 さらにもうひとつつけ加えれば、まさにそのカルプが批判の槍玉に挙げている「暗黒啓蒙」である。暗黒啓蒙とは、イギリス出身の著述家でブロガーのニック・ランドが2012年にウェブに発表し、いわゆる「加速主義」や「オルタナ右翼(オルタ・ライト)」に大きな影響を与えたといわれる主張だ。また、『ダーク・ドゥルーズ』と同様、暗黒啓蒙もここまでに紹介してきたポストヒューマニティーズの哲学の代表的な潮流である「思弁的実在論」と深く関係していることでも知られている。暗黒啓蒙とは文字通り自家撞着めいた名称だが――知られる通り、そもそも「啓蒙enlightment」とは「暗闇が光lightで照らされること」を意味する――従来の近代的な啓蒙主義へのアンチテーゼを掲げた反民主主義的で反動的な動きである。暗黒啓蒙にインスパイアを与えた決済サービス「PayPal」の創業者ピーター・ティールによれば、2001年の「9・11」(ニューヨーク同時多発テロ事件)によって近代西欧のさまざまな「啓蒙」のプロジェクト(リベラル民主主義、人権主義、ヒューマニズム……)は完全に潰えたという。このティールの考えを受け継ぎ、反民主主義的な右派リバタリアンの態度を掲げるのが、ランドの暗黒啓蒙である。

『天気の子』(c)2019「天気の子」製作委員会

 また、このランドが代表的論客とされる現代の社会思想に加速主義がある。加速主義については、ぼくも以前、リアルサウンド映画部の『天気の子』(2019年)公開時にレビューでごく簡単に触れたことがあるが(参照:『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの)、これは、2008年のリーマン・ショック後、資本主義に対する新たな戦略として打ち出されているもので、現代の資本主義システムに根本的な変革をもたらすために、むしろ資本主義の暴力的な力を脱領土化しより加速させることで、資本主義を自己破壊に導き、その「出口」(イグジット)を目指そうとするリバタリアン的な立場だ。これら暗黒啓蒙にせよ、その別称としての「新反動主義」にせよ、加速主義にせよ、ドナルド・トランプの支持者(オルタナ右翼)の思想的基盤となったこともあり、2010年代を通じて注目を集めていた。ちなみに、『ダーク・ドゥルーズ』でカルプは、「[註:<外>へといたる]プロセスを十分に考慮していない」(『ダーク・ドゥルーズ』大山載吉訳、89頁)という点で「全ての加速主義」を否定しているのだが、かつて下流社会の少年少女が生きる「ダーティな東京」を描いた『天気の子』に加速主義との親近性をぼくが認めたように、これらの2010年代の「暗い思想」が「暗い画面」の映画とどこか結びついていることは考慮しておいてもよいと思う。

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