小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

20世紀から21世紀の“画面”の映画史

小津安二郎の「<明るさの映画>」

 また、一方で滝浪は、この松竹蒲田調の代表的監督でもあった小津安二郎のサイレント時代の作品をめぐる研究において、ほぼ同じ時期(1920年代後半)の日本映画にはハリウッド映画から影響を受けた、また別の「明るさ」の要素が存在したことを指摘している。それが、彼が「<明るさの映画>」と名づけるものだ。

小津が映画作家としてのキャリアをスタートさせた一九二〇年代後半日本において、ハリウッド映画の本質は<動き>と<明るさ>の性質にあると見なされていた。<明るさ(lightness)>とはここで、「重さ」にたいする「軽さ」、「暗さ」にたいする「明るさ(brightntss)、さらには「朗らかさ」、「快活さ」といった、ハリウッド映画が一九二〇年代後半日本における大衆文化という文脈のなかで持っていた感覚を指している。[…]

 時代としては、<明るさの映画(cinema of lightness)>は、「アトラクションの映画」[註:まだ物語のつかない、草創期の映画]につづく、一九二〇年代中盤から後半にかけてのサイレント映画最後期に存し、地域としては、第一次世界大戦以降のグローバルな政治経済システムの移行に規定された歴史的で地政学的な状況のために、とりわけ日本(および「狂騒の二〇年代」に沸いたアメリカ)においてもっとも明瞭に照らし出されていた。(『小津安二郎 サイレント映画の美学』慶應義塾大学出版会、14~21頁)。

 一般的にぼくたちがよく知る戦後の小津安二郎が『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)など、しばしば日本的侘び寂びにもなぞらえられる、保守的なホームドラマ(いわゆる「小津調」)を量産していたように見られることに比較し、戦前(あるいはサイレント時代)の彼が、むしろエルンスト・ルビッチやキング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマン、ジョゼフ・フォン・スタンバーグといったハリウッド監督たちからの圧倒的な影響を受けた非常にモダンでスタイリッシュな作品を手掛けていたことは映画ファンならよくご存知だろう。

 滝浪によれば、小津を筆頭とする1920年代後半の日本では、こうしたサイレント時代のハリウッド映画のスタイルから大きな影響を受けていたが、そこで彼らが注目していたのはそれらの映画がいきいきと描き出す映画ミディアム特有の「<動き>」の印象であり、それを「明るさ」という語彙で表現していたという。「ここで注記したいのは、「明るさ」と「ソフィスティケーション」という語はともに、ハリウッド映画が大衆モダン文化の隆盛という歴史的文脈のなかで持っていた感覚、とりわけ憧れの対象としての「モダンなもの」に結びつけられた感覚を指していたということである。そしてこの感覚を名指すために、もっとも頻繁に使われたのが<明るさ>という語だった」(同前、36頁、原文の傍点は削除した)。たとえば、先ほどの牛原虚彦のスポーツ青春映画にせよ、そこでは男性主人公のスペクタクル的なアクション動作を介して、「健康的」な「<動き>」としての「明るさ」が表象されていたというのである。

 ここから滝浪はフランスのフォトジェニー理論を含むサイレント映画時代の映画美学とサイレント時代の小津の映画美学がいかに同時代的に共振していたかを巨細に解明していくのだが、いずれにしても、この滝浪の議論は、「明るく楽しい」松竹蒲田調の映画が一方で多様な「明るさ」をはらみながら製作され受容されていた実態の一端を垣間見させてくれるものである(また、そもそも戦後の小津調時代の小津作品の画面にせよ、『監督 小津安二郎』の蓮實重彦が「白昼の光線の作家」と呼んだように強烈な「明るさ」をまとっていた)。

『陰翳礼讃』と「影の美学」の出現

 以上のように、1920年代から30年代の日本映画は、同時代のハリウッド映画の多大な影響を受けながら、総じて「明るい画面」を志向していた。

 ただ、やはり事態がそう単純ではないのは、この松竹蒲田的な「明るい画面」や「明るい映画」が花開いていた時期に、そこでは対極的な「暗い画面」、あるいは宮尾のいう「影の美学」が産声を上げていたという事実である。宮尾が整理するところによれば、日本映画ではだいたい蒲田調が終わりを迎える1937年ころから松竹映画的な「明るさ」が映画批評家やカメラマンたちのあいだでこぞって批判され始め、反対に「影の美学」といえるようなものが声高に叫ばれ出したという。

 たとえば、松竹の美術監督を務めていた芳野尹孝は、後年の1970年代末――大林宣彦と角川映画が「明るい画面」を作り始めていた時代――に、この時代の日本映画に見られ始めた傾向を「陰翳の美学」という言葉で言い表していた(『映画照明』8月号)。この芳野の「陰翳の美学」という表現は、時代背景を考慮すると、その「元ネタ」にたちどころに気づくだろう。そう、「明るく楽しい松竹映画」全盛の1933~34年に発表され、1939年に単行本としてまとめられた谷崎潤一郎の文明論的随筆『陰翳礼讃』である。いまなお日本文化論の代表的名著として海外でも広く読まれているこの文章で谷崎は、よく知られるように、関東大震災後に急速に欧風化し古来の江戸情緒が消えゆく当時の日本社会を憂え、人工的に影を消していく西洋文化と比較し、むしろ自然の陰翳のなかで美を作り出す日本独特の芸術精神や美意識を称揚したのだった。

 しかし、彼がこの随筆を記した昭和初期の日本は、皮肉にも、じつのところ世界でも屈指のネオンサイン(電気照明)文化が成立しており、大都市では夜の闇を白く塗り替えるほどの煌々とした「明るさ」で満たされていた。すなわち、繰り返すように、1920年代から30年代の日本の映画・映像文化では松竹蒲田調からネオンサイン文化にいたる「明るい画面」の趨勢が絶頂を迎えた一方で、『陰翳礼讃』的な「影の美学」=「暗い画面」の価値が打ち出されていた両義的な時代でもあったのである。事実、ヘンリー・小谷に師事し、戦後日本を代表する名映画カメラマンのひとりとなった碧川道夫は、著書『映画撮影学読本』(1940年)のなかで谷崎の『陰翳礼讃』を映画カメラマンの「教養」として挙げた。

 さらに、この「明るい映画」から「影の美学」へのヘゲモニー移行は、ある側面で「松竹から東宝へ」のそれとしても表れた。まさに松竹蒲田調が終焉を迎える1937年に「東宝映画株式会社」となった東宝は、こうした戦時下へと向かって拡大していく「影の美学」をもっともよく体現するスタジオとなっていった。その事実を宮尾は、蒲田調の「明るい画面」を受け継いだ時代劇で松竹の大スターとなった長二郎が、本名の「長谷川一夫」に改名して移籍した先の東宝でいかに「影の美学」をまとって「暗い画面」のなかで演じたかを、山本嘉次郎監督『藤十郎の恋』(1938年)を例にたくみに分析している。

 いずれにせよ、ぼくたちはこの戦前の日本映画の「明るい画面」と「暗い画面」のコントラストの絡まり合う文化状況に、今日の同様の見取り図と非常に重なるものを認めることができるだろう。

 なんとなれば、さらにここには連載第1回のZoom映画の考察の箇所(参照:“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える)で触れた現代の映像文化におけるタッチパネル的な「ハンドメイキング」=触覚性の問題との共通性も見出せる。柳田國男の『明治大正史 世相篇』から松山巌の『乱歩と東京』まで、1920年代を「視覚優位の時代」として描き出す文献は数多い。しかし、じつはそれゆえに、著名な「触覚芸術論」が作中で語られる江戸川乱歩の短編小説『盲獣』(1931年)に象徴されるように、当時は「触覚」への関心が密かに高まった時代でもあったのである。

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