『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

『ヒプノシスマイク』から考える映像文化

 最近、この10月からTOKYO MXで始まったテレビアニメ『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima‬を観ている(Netflix配信をまとめて観ることが多いのだが)。

 本作は、キングレコードの内部レーベル「EVIL LINE RECORDS」が2017年から手掛ける男性声優たちによる音楽原作キャラクターラッププロジェクトのテレビアニメ化。昨今のオタク系コンテンツ同様、マンガ、アプリゲーム、舞台など、多角的に展開されているメディアミックスの一環だ。本作の舞台設定は、女性だけによる政党「言の葉党」が男性を完全排除した「中王区」で政権を握り、彼女たちが制定した「H法案」によって人間を殺傷するすべての武器の製造禁止及び既存の武器の全面廃棄が実現された世界。そのなかで、中王区外のいくつかの区画(ディヴィジョン)で暮らし、MCグループを結成している男性たちは、言の葉党が武力の代わりに開発し、言葉=リリックによってヒトの交感神経にさまざまな作用を及ぼす「ヒプノシスマイク」を用い、ラップバトルによるテリトリー争いを繰り広げている。

 正直、ぼくはこのコンテンツの熱心なファンとはいえない。しいていえば、10年ほど前に刊行した単著で、メディアの「ソーシャル化」以降に台頭しつつある昨今の新たな映像文化においては、「ヒップホップ」に象徴される「リズム」に準拠した身体的な情動性が鍵となるだろうと、『SRサイタマノラッパー』(2009年)や『サウダーヂ』(2011年)を例に出しながら指摘した者として(拙著『イメージの進行形』第2章を参照)、単に気楽にアニメ版を視聴しているといった程度だ。

 もちろん、この連載のつながりでいえば、前回、「プロセスの映像文化」を定義する際に参照したA・N・ホワイトヘッドの「抱握」概念に関して、まさに「律動pulse」の要素が深く関わっていることを論じた社会学者の伊藤守の議論をここで念頭に置いてもよいだろう(『情動の社会学――ポストメディア時代における“ミクロ知覚”の探究』青土社)。したがって、ここではぼく固有の関心からこのアニメについて書いてみたい。

『ヒプマイ』の示す現代カルチャーのフラットさ

 アニメ版の『ヒプマイ』は、ひとまずは2010年代以降に急速に隆盛した一連の「アイドルアニメ」の系譜に明らかに連なる作品といえる。なおかつ「男性たちのラップバトルを女性が見る」という物語世界の設定にも如実に反映されているが、最近も批評家の石岡良治がたびたび強調する(『現代アニメ「超」講義』)、21世紀以降の「女性オタク」の台頭を表してもいるだろう。

 その上でいえば、本作からはさまざまな意味で、ある種の「フラットさ」を強く感じる。たとえば、こういう議論がすでにされているのかさえぼくは寡聞にして知らないが、『ヒプマイ』の世界観は、「EXILE」グループによる総合エンターテイメントプロジェクト『HiGH&LOW』シリーズ(2015年〜)と多分に共通するところがある。また一方で、Zeebraが企画したラップバトルをテーマとする深夜バラエティ『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系、2015年〜2020年)から始まる近年の「フリースタイルラップバトル」ブームともリンクしている。実際、この三者が始まった時期は、ほぼ同じだ。しかも、そもそも『フリースタイルダンジョン』のエンディングテーマは、LDHの「BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE」であり、番組ナレーターは、『ヒプマイ』の「MC.B.B」こと山田一郎役を演じる木村昴が務めている。

 かつては、『ヒプマイ』を受容するようなオタク層と、『HiGH&LOW』を観るようなマイルドヤンキー層、そして『フリースタイルダンジョン』に熱中するようないささかアンダーグラウンドなコアカルチャー層とはそれぞれ別々のクラスタに属し、相容れないものだったはずだ。しかし、2020年の現在では、それらが若者文化のなかで相互にユルく、浅く、つながりあっている。これが、『ヒプマイ』のフラットさのひとつだろう。

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