驚くべき完成度とまさかの結末 イタリア発の正統派ミステリー映画『霧の中の少女』に二度驚く

正統派ミステリー『霧の中の少女』に二度驚く

 2010年代に作られた最も優れたミステリー映画の一つ、『プリズナーズ』(2013年)を撮ったドゥニ・ヴィルヌーヴは、このところSF映画ばかり続けて撮っている。2000年代を代表する世界的ベストセラー、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』シリーズで最もミステリー色の強かった一作目『ドラゴン・タトゥーの女』をハリウッドで映画化(2011年)したデヴィッド・フィンチャーは、その後シリーズから離脱(ソニーピクチャーズと製作費やギャラが折り合わなかったのが理由だと言われている)し、同じくミステリー色の強かったギリアン・フリン原作『ゴーン・ガール』を映画化(2014年)した後は一本も映画を撮ってない。

 現在の映画界における「ミステリー不足」の一因は、テレビシリーズの活況にある。『ミレニアム』を発火点とする北欧ミステリー・ブームは、『刑事ヴァランダー』、『THE KILLING/キリング』、『THE BRIDGE/ブリッジ』といったテレビシリーズ(いずれのシリーズもスウェーデンやデンマークでオリジナル版が製作された後、イギリスやアメリカで英語版のリメイクが作られた)へと引き継がれた。それまでアートハウス系作品の監督というイメージが強かったジャン=マルク・ヴァレは、HBOで『ビッグ・リトル・ライズ』、『シャープ・オブジェクト』(『ゴーン・ガール』のギリアン・フリン原作)とそれぞれミステリー色の強いテレビシリーズの全エピソードを一人で演出して、監督としての世界的な評価を確立した。主要キャラクターだけはない脇のキャラクターの描き込み、複雑に入り組んだストーリー、意外性のある展開の連続、次のエピソードに持ち越していく謎かけ。確かに、時間の制限が緩いテレビシリーズとミステリーの相性は、2時間の映画に対して大きなアドバンテージを持っているように思える。

 イタリア発のミステリー映画『霧の中の少女』で原作、脚本、監督を務めたドナート・カリシは、そんなミステリー作品の映像化を取り巻く現状を知り尽くした上で、敢えて今の時代にダークでシリアスな正統派ミステリー映画を世に問いたかったのだろう。カリシは大学で犯罪学と行動科学の研究をした後、戯曲家としてデビュー。その後、RAI(イタリア国営放送)のテレビシリーズの脚本家としての活躍を経て、2009年に『六人目の少女』(早川書房から日本語の翻訳版も発売されている)で小説家デビューをすると、一躍国際的な評価を得た。つまり、本作『霧の中の少女』は小説の世界もテレビシリーズの世界もよく知る人気ミステリー作家が自ら企画を実現させ、自ら脚本を書き、自ら演出を手がけた作品ということになる。

 あるイタリアの田舎町で、クリスマスイブの前日に一人の少女が忽然と姿を消す。その少女失踪事件の捜査の指揮をとるために、ベテランの敏腕刑事が都会からやって来る。そんなミステリー作品としてあまりにもベタな設定から始まる『霧の中の少女』は、その後、ジャンルの定型を知り尽くしているが故の数々のミスリードで観客を翻弄し、警察とメディアの癒着、高校での文学の講義などが物語上の重要なフックとなって、最初はまったく想像がつかなかった驚愕の真相へと突き進んでいく。本作を特徴付けているのは、「ミステリー映画」というもしかしたら時代遅れかもしれないジャンルへの迷いのない信頼と、伏線や謎を張り巡らせる際に細心の注意が払われているところ。それは「原作者が脚本を書いて監督する」という、いわば「生産者直送」映画であることからくる純度がもたらす美点だろう。

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