『君の名は。』との共通点と相違点から、新海誠監督最新作『天気の子』の本質を探る

『君の名は。』と探る『天気の子』の本質

 『君の名は。』と『天気の子』は、その神話的モチーフは似ているが、それを肯定するか否定するかというところでは、逆の方向を向いていると感じられる。『君の名は。』は、隕石の落下を無効化してしまうことで、現実の東日本大震災に対する多くの人々の深層的な罪悪感を晴らしてしまうような描写を用意した。そこに時代的なカタルシスが発生していたのだ。

 つまり『君の名は。』は、生き残った多数派の側に立った作品だった。対して『天気の子』は、そのような多数派の無神経さを糾弾する少数の人々の物語を描いている。その意味で本作は、『君の名は。』と対になりバランスをとる作品になっている。だから本作は、前作ほどの熱狂を生み出すようなものにはなっていないのかもしれない。しかし、よりやさしい目線で弱い人間に寄り添う作品になっているのである。

 だが本作には、『君の名は。』同様に問題が発生している部分もある。2作品における最大の特徴は、作中でダイナミズムを発生させるために、恋愛における気持ちの高まりと、人を救うという行為を同時に描いてしまっているところだ。

 本作では、帆高の軽率なアイディアによって、陽菜を犠牲にしてしまうことになる。それを挽回しようと奮闘するのは、帆高の人間としての贖罪であるべきだ。にもかかわらず、彼はその行動に、自分の想いを彼女に伝えたいという感情を重ねてしまっている。だから彼女を救い出す最中にあっても、窮地にあるはずの彼女に対して恋愛感情をぶつけてしまうのだ。たまたま陽菜がそれを望んでいたからいいようなものの、告白は非常にアンフェアな状況で行われているのである。

 このような、とくに男の側の身勝手な想いを美しく肯定してしまうのが、新海誠監督のこれまでの作家的な問題だった。その問題が、恋愛描写とスペクタクルを同時に描いてしまうような2作品において、強烈な違和感を残してしまっている。このような、もはや恋愛とも呼べないような恋愛観を、“一方的なもの”だと、いまだに気づけていない監督が、恋愛作品を描き続けているのは、疑問を感じる部分である。ここを払拭することなしに、新海監督が恋愛を題材にしながら、“国民的”作家になってしまうのだとするなら、それもまた現在の日本社会を表象する現象だといえるだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『天気の子』
全国東宝系にて公開中
声の出演:醍醐虎汰朗、森七菜、本田翼、吉柳咲良、平泉成、梶裕貴、倍賞千恵子、小栗旬
原作・脚本・監督:新海誠
音楽:RADWIMPS
キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:田村篤
美術監督:滝口比呂志
(c)2019「天気の子」製作委員会
公式サイト:https://www.tenkinoko.com/

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