『君の名は。』との共通点と相違点から、新海誠監督最新作『天気の子』の本質を探る
本作で離島の実家より東京へ家出し、“ネットカフェ難民”となってしまう少年・帆高(ほだか)が出会うのは、天候を変えるという不思議な能力を持った少女・陽菜(ひな)。彼女が願いを込めると、雨を降らせている雲が避け、日光が下界を照らす。
ヴィジュアル面では、光が高層ビルを次々に照らしていくシーンが、本作の最も美しく、ダイナミックな表現だろう。もともと新海監督は、キャラクターの演技よりも、詳細に描いた背景やエフェクトによって生み出す“雰囲気”の方が圧倒的に優れており、それが最大の魅力だった。それが本作では、天候の変化というダイナミックな描写において、物語のなかで最大限に機能している。このようなねらいというのは成功しているといえるだろう。
ある想いを強く抱きながら鳥居をくぐり抜けたことで、天上の世界へと結び付けられたという陽菜は、半ば地上の者ではなくなってゆく。帆高は、自分の商売のアイディアによって彼女に力を使わせすぎてしまったという罪悪感を背負うことになるが、もはや自分の力では事態をどうすることもできなくなってゆく。
ここで思い至るのは、本作の裏に隠されているかもしれない“もう一つの物語”である。「バーニラ、バニラ、バーニラ求人」でおなじみの、大音量で街を巡っていく“バニラトラック”が印象的に登場することが象徴しているように、本作には性風俗産業の影がつきまとっているように感じられる。
帆高は、風俗店の従業員に連れ込まれようとしている陽菜を救出することになる。しかし、もしも帆高が陽菜を救い出せていなかったとしたらどうだろうか。彼女は客をとらされ、対価を手に生活していくはずだ。そしてほぼ収入のない帆高は、彼女の“ヒモ”として、その収入をあてにアパートに入りびたることになるのかもしれない。これが、“ファンタジー”を取っ払った“現実版『天気の子』”である。
帆高は傷ついていく陽菜を救い出すため、商売から“足抜け”させようとするが、すでに大人の世界の“システム”によってがんじがらめにされていた彼女をどうすることもできない。本作が、天と地を舞台にしたファンタジーによって覆い隠しているのは、現実にいくらでも転がっている、システムの底辺にあって残酷な社会に押しつぶされていく男女の情痴の物語なのではないだろうか。
無力な男と献身的な女。この一連の物語に通じているのは、明治期の『義血侠血(瀧の白糸)』や『金色夜叉』のような、古い社会における、きわめて古典的な男女関係のエピソードである。それがいま甦ってくることに、なんとなくリアリティを感じるというのは、経済力が低下し、格差が広がっていきつつある社会が、一人ひとりの幸せをカバーする余裕がない時代へと後退しつつあることを意味しているのかもしれない。
陽菜のように、他人の楽しみをケアすることに生きがいを感じ、献身的に振舞う女性というのは、これまでの歴史の裏に数多く存在していたことだろう。しかしその労苦はいびつな社会において、多くの場合報われることはなかった。そのように損な役回りをさせられる底辺にある人々を、社会はあたかも存在していないように扱う。歯車に押しつぶされた亡骸を、誰もが目にしていながら、無かったことにして通り過ぎる。誰かを犠牲にしながら、「今日も日本は平和だねえ」とお茶の間やカフェでくつろぎながら笑い合う。このような欺瞞に満ちたシステムを暴くのが、本作の本当の物語ではないのか。そんな世界は滅びてしまえばいいという激情が存在するところが、本作のパンクな快感であり、カタルシスであろう。