松たか子が体現した“侘び寂び”の美しさ 『スロウトレイン』が照らした新年の幕開け
鎌倉・江ノ電に揺れる、葉子(松たか子)、都子(多部未華子)、潮(松坂桃李)の3姉弟。この日は、交通事故で亡くした両親と祖母の23回忌だという。「祖母を見送る」「父親を見送る」「母親を見送る」……人生の先輩たちとの別れは、誰もが避けては通れないもの。しかし、それがいっぺんに来たときの彼らの寂しさはいかほどだっただろうか。
言いたいことを言い合いながらも仲睦まじく電車に乗っている3姉弟の姿から、彼らが家族として支え合って日々を過ごしていたことが伺える。3人で生きるしかなかった。3人で幸せになろうともがいてきた。しかし、そんなずっと続くと思われた家族の時間にも限りがあるのだという現実が、じわじわと近づいてくる――。
新時代を生きる上で、最大のハードルは寂しさ!?
1月2日にオンエアされた新春スペシャルドラマ『スロウトレイン』(TBS系)で描かれたのは、家族の分岐点だ。人生は、まるで各駅停車のようにライフイベントがやって来る。進学、就職、結婚、出産、子どもの巣立ちに、親の旅立ち……。
最近では、自らの意思で通過するイベントを選べるようにもなってきた。だが、それでも独身でいることに何か「理由」のようなものが求められるのは、きっと「独り身」を自ら選択する人なんていないのではないかという、ある意味での思い込みがあるから。
どれだけネットが普及し、技術的に世界中の人と繋がれるようになったとしても、寂しさとは切り離すことができない。しかし、だからといって結婚すればその寂しさから逃れられるというわけではないのに。
葉子は、自らの意思で結婚しない人生を歩んでいる。かつての恋人と結婚する未来を思い描いたこともあったが、そうはならなかった。それは、当事者同士で話し合って導いた納得の結論だった。にもかかわらず周囲はそうは見ない。
「何かのっぴきならない理由があったに違いない」と勝手にストーリーを仕立てられてしまう。例えば、それが幼い妹と弟を置いて嫁になんて行けなかった……なんていうそれらしい物語があったほうが、人々は納得する。だが、そのストーリーが身近にいる人たちの未来の選択に影響を及ぼすことも……。
それは自分たちのせいで姉が寂しい人生を送らざるを得なくなってしまったのかという、都子と潮のモヤモヤとして染み付いていた。今度は、それぞれパートナーを見つけたのだが、その一歩が踏み出せない。
その相手は、外国人だったり同性だったりと、一昔前まではかなりハードルが高いと思われた事情があるものの、2025年を生きる彼らにとっては大きな問題はそこではないのが興味深い。最も重要なのは、姉の葉子にも寂しさを感じさせたくないという思いなのだ。
松たか子が体現した「侘び寂び」の美しさ
しかし、妹弟の心配をよそに葉子は実家での1人暮らしにも淡々と順応していく。都子、潮と囲んでいたダイニングテーブルの椅子は潔く1脚にして、広々と仕事をするのだ。「ただ生きて。小さな時間を過ごしています」という語り口には、凛とした美しさすら感じるほど。
そうか、これが「侘び寂び」か……なんて思ったりした。静かにありのままを受け入れる心、経年による衰えや朽ちた美しさを楽しむ、日本特有の美意識と言われている「侘び寂び」。その言葉の意味はなんとなくは知ってはいたものの、それを「こういうもの」という実感をする機会はなかなかなかった。
むしろ現代では、華やかで賑やかなものばかりがもてはやされ、いつまでも若々しいことが美しさの正義のように語られる。SNSで他人の暮らしぶりや容姿を見ては、比較して羨んだり焦ったり。それこそ、「持っている」ことを強調される「持っていない」ことを痛感して心が寂しいと感じることもある。
しかし、人生とは本来寂しいものなのだ。生まれたからには必ず死が待っている。出会いがあれば別れがあり、始まれば終わりに向かっている。成長や進化は喜ばしい一方で、これまでの形が変わってしまうという物悲しさもある。
成長・成熟の先に劣化・老化がある。それはごく自然な流れ。だからこそ、その当然のなりゆきを愛しく思えることができれば、さまざまなライフイベントが待つ人生を生きる上で、こんなに心強いことはない。多様化した幸せ、さまざまな価値観に晒される今だからこそ、そんな「侘び寂び」の心がお守りのように心を落ち着かせてくれる気がした。