『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』宮台真司×中森明夫 対談レポート(前編)
宮台真司×中森明夫が語る、映画と社会の現代的難点 『正義から享楽へ』対談(前編)
中森:去年の夏、中上健次の故郷(和歌山県新宮市)にある熊野大学で、田中康夫、浅田彰の夏期特別セミナーに出演したんですよ。そこで浅田彰と話していて、浅田は「ヒラリーがいい悪いではなく、いくらなんでもトランプにはならないだろう」と。僕は「いや、アメリカ人はバカだから、絶対トランプになるって」と言っていたんです。予想が当たったから言うわけじゃないけど、トランプのほうがどうやったって「面白い」でしょう?
宮台:間違いない。
中森:オバマだって面白かった。アメリカは、そうなっちゃう国なんですよ。『正義から享楽へ』を読んで聞きたかったのは、宮台さんは結局、トランプを肯定しているんですか?
宮台:トランプの政策や価値を内容的に支持してはいない。トランプが当選しなかったら、資本主義と主権国家と民主政治のトリニティからなる近代社会なんて、そもそも不可能である事実が暴露されず、「見たいものしか見ない」弥縫策が続き、新しい歴史のページが開かれずに終ったからです。むろんそれは「面白くない」のだけどね。
師匠の1人だった廣松涉氏が、自分の活動目的は歴史の推転を速めることだと仰言っていた。「どうせ来るなら、早く来い」と。来るはずのないものが来たらマズイが、トランプによってもたらされるものはどうせ来るもの。実際ずっと前から存在した「見たくないもの」が露呈しまくっているでしょ。それがなきゃ「茹でガエル」になってた。
中森:問題の全体像や本質がモヤモヤっとなっちゃう。
宮台:中森さんに面白いネタを振ります。トランプ政権のイデオロギー的な後ろ盾は大統領首席補佐官スティーブ・バノン。大統領を取り巻くオルタナ右翼の1人だ。リチャード・スペンサーやピーター・ティールも有名だね。スペンサーは自身のツイッターアイコンがアキバ系。オルタナ右翼にアキバ系のオタクが多いのは周知ですよね。
バノンの思考は黙示録的。「世界が破滅するときに神が現れる」という思考です。ヤハウェ信仰の最大の難点は「なぜこれほどしても神が動かないのか」でした。どんなに生贄を捧げても動かない。神と取引する瀆神行為だからじゃないか。そこでバビロン捕囚時代に「罪」が浮上した。でも「罪」を犯さないように頑張っても神が動かない。
ユダヤの悲劇が大したものじゃないから神が動かないんじゃないか。ならば世界が破滅すれば神が動いてくれる。こうした願望的思考から新約聖書の「ヨハネの黙示録」みたいな観念が生まれた。因みにイエスは「罪を犯さないから救え」も神に取引を持ちかける瀆神だとし、「常に既に神が動いている」証拠を見せます。「奇蹟」と呼ばれます。
バノンは80年毎に米国史が転換するというウィリアム・シュトラウスとニール・ハウの共著『四度目の転機』(1997)の影響を受けています。今回が四度目の転機。大恐慌(1929)に始まる期間が終ろうとしている。ならば旧時代の残滓を叩き潰せ。だからスクラップ&スクラップを信条とします。これを聞いてオウム真理教だと思いました。
中森:ああ、ハルマゲドンだ。バノンって、本当にマンガみたいな男でしょう? しかも、けっこう雑な絵で描いたマンガで。
宮台:バノンはカトリックだが、カトリックは普通ハルマゲドンを重視しない。黙示録は「動かない神」に悩むユダヤ教徒のものだから。さて日本のアニメは黙示録を反復してきた。火の七日間戦争の後に救世主が登場する宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。ハルマゲドン後のネオ東京と第3新東京市を描く大友克洋『AKIRA』(1988)と庵野秀明『エヴァンゲリオン』(1995)。
出発点は『風の谷のナウシカ』です。宮崎駿『未来少年コナン』(1975)も同じ設定だけど、物語として活きてはいない。実際ナウシカ以降十年間のメタルPVは軒並み「核戦争後の共同性」を描いていました。その流れの上に鶴見涉のハルマゲドン待望論もオウム真理教もありました。『終わりなき日常を生きろ』(1995)に書いた通りです。
オルタナ右翼の黙示録的世界観も、ユダヤ教にルーツがあるにせよ、日本のアニメに触発されたのかもしれない。バノンがICBM完成前に北朝鮮を叩けと限定核使用をけしかける可能性があるけど、ピョンヤンに核が打ち込まれれば日本にノドンが降り注ぐ。漫画やアニメの悪影響を言うなら、大股開きのエロじゃない、ナウシカだ!
中森:宮台さん絶好調だね。ひとつ聞きたかったのは、この世界はクソだというのはすごく納得いくんだけれど、例えば今の若い学生がこの本を読んで、そのことに気づいちゃった場合、メンヘラっぽくなっちゃうんじゃないかと。トランプやバノンにはなりたくないし、オウムみたいなものはダメだし、と言ってSEALDsの奥田愛基みたいにリア充やってたらメチャクチャに絡まれて、殺人予告されたり。世の中がクソだとわかっていて、「正義から享楽へ」という方向にどう転換できるのか、ここが聞きたかった。
宮台:いい質問。ISIL関連とされる先進国の昨今のテロはISILはあまり関係ない。2年前から落ち目になったISILがこう呼び掛け始めた。先進国で苦しむ者よ、俺たちに連帯して糞な社会をブッ潰せ。宗教も教義もない。<クソ社会ブッ潰せ系>のミメーシスがあるだけ。ナウシカ批判は本当は冗談で、問題はこの感じ方にある。
感じ方の淵源は何か。僕は中高時代マルクーゼとライヒにハマります。2人が「革命には享楽が必要」と喝破したから。彼らが依拠するフロイトは「法の正しさ」は「法破りの享楽」を生むとします。ならば「正しさ」だけで革命できると考えるのは単に頓馬だ。中高時代の僕は、頓馬が旧左翼で、享楽を同時に追求するのが新左翼だと感じました。
正しい事を伝えて間違った事を論破すれば人を動かせると考える輩。昨今の僕はクソ左翼とか糞リベと呼ぶけど、中高時代に憎き敵だと感じた当時の共産党や民青を思い出させます。正しさでマウンティングしても人は動かないというのが新左翼の「意気に感じる路線」。戦前右翼に繋がります。とにかく享楽のセンスを磨かなきゃダメだ。
僕が院生時代にマーケッターをしたのも一つはそのためです。それから30年経った今も、正しさマウンティングの糞リベには「享楽がなきゃ人は動かない」と言い、享楽だけで繋がるウヨ豚には「正しさを無視すると持続できない」と言っています。但し、正確に言えば、糞リベも実は正しさマウンティングの享楽を独占してるだけなんだね。
だから「正義から享楽へ」というのは、ウヨ豚や糞リベが跋扈する“現実”のことです。対照的に、僕が目差す“理想”と「正義と享楽の一致」です。じゃあ、「正義と享楽の一致」にどう転換するべきか。因みにこうした問題意識を奥田君に伝えてきた経緯もあります。その彼は殺人予告なんか恐れていません。それがヒントになるでしょう。
「正義と享楽の一致」に向かおうとする人が、病み系やメンヘラにならないようにするには、どうしたらいいか。簡単です。「意識高い系」をやめればいいだけだよ。要は「いいね!」ボタンの収集をやめることだ。そこには「意識高い系」は実は「意識が低い」という逆説があるんですね。詳しく説明しましょう。
損得の<自発性>と内から湧く<内発性>を区別したアリストテレスを受け、ウェーバーは合理性(自発性)と非合理性(内発性)を区別。[合理化=没主体化=入替可能化]vs.[非合理化=主体化=入替不能化]とする。主体性とは非合理を意志できる力。「いいね!」ボタン収集は損得の合理性ゲームで、「意識高い系」=「非合理を意志できないヘタレ」です。
これを踏まえて、真の享楽とは何かを考えます。「いいね!」ボタン収集競争の勝利は、言語的な自動機械に配当された入替可能な「快楽」で、その外にある端的な享楽を“意識”して目差せというのがラカン=ジュパンチッチの答え。“意識”しないと言語に操縦された自動機械に堕す。因みに、意識とは再帰的反応(反応への反応)の高次化だ。
40年以上前にJ・ジェインズが定式化します。ヒトが書記言語を創案して大規模定住社会を営み始める三千年前よりも昔、ヒトは意識を持たなかった。初期の神話や叙事詩の分析から得られた仮説です。怒れば、怒りの振舞いの直接性が、悲しめば、悲しみの振舞いの直接性が、あるだけで、そこには反応の再帰性つまり“意識”は、ない。
この仮説を取り込んだのが伊藤計劃の『ハーモニー』(2009)というSFでした。クレームで消沈するとか、罵倒で動転するとか、全て自動機械の直接性です。僕はウヨ豚や糞リベの言うことを一切気にしない。今もラジオ番組に殺到するクレームを無視して「米国のケツの穴に糞が付いていてもケツ舐めを続けるのか」と言い続けています。
意識化(再帰的反応の高次化)が直接性を塞いで享楽を遠ざけるとの危惧があるけど、実はそうじゃないことを80年代前半のアウェアネス・トレーニングで学びました。性愛を想像すれば分かります。相手の反応を自分の反応へと複写するように“意識”し、自分の反応を相手の反応へと複写するよう“意識”することで、享楽を相互触媒できます。
(取材・文=編集部)
後編:宮台真司×中森明夫が語る、世の摂理を描き切る映画の凄味 『正義から享楽へ』対談(後編)
■書籍情報
『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』
発売中
著者:宮台真司
定価:1800円+税
ISBN-10:4773405023/ISBN-13:978-4773405026
仕様:四六判/392ページ/ソフトカバー
発行:株式会社blueprint
発売:垣内出版