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『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』宮台真司×中森明夫 対談レポート(後編)

宮台真司×中森明夫が語る、世の摂理を描き切る映画の凄味  『正義から享楽へ』対談(後編)

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 社会学者・宮台真司の映画批評本『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』の刊行を記念し、著者・宮台と作家/アイドル評論家・中森明夫のトークショーが、2月20日にLOFT9 Shibuyaにて開催された。リアルサウンド映画部では、2人が本の内容から話題の社会問題までを語り尽くした当日のトークイベントの模様を、両人の確認・加筆の上、前後編の2回にわたって掲載。

前編:宮台真司×中森明夫が語る、映画と社会の現代的難点 『正義から享楽へ』対談(前編)

中森:ネットで突っ込まれたくらいで“どうしよう”というヤツだと、たちまち正しさの方に巻き込まれてしまう。若い人はそれに弱いと思うんですよ。スポーツ界では、羽生結弦とか、大谷(翔平)とか、松山(英樹)とか、世界に通用する若い人が出てきているけど、例えば映画の分野を見ると、庵野(秀明)さんとか、片渕(須直)監督とか、あるいは岩井俊二とか、結局僕ら世代じゃないですか。

宮台:大事な話ですね。意識も言語的に自動機械化しがちです。自動機械化した意識は自動機械化した無意識を生む。だからラカンは無意識が言語的に構造化されていると言った。ならば意識に対しても再帰的反応の高次化を重ねるべきです。これを僕は「抽象水準を上げる」と表現してきた。楽器演奏や武道実践を考えると分かりやすい。

 演奏は最初スコア通りに弾ける(身体が動く)よう“意識”しますが、習得が進むにつれ“意識”せずとも弾けるようになります。完全に習得した暁には身体は演奏する自動機械になり、主体が楽器を弾くという感覚も消えます。でも“意識”が失われたんじゃない。謂わば幽体離脱した状態で、僕の“意識”は演奏する自動機械に寄り添います。

 喋りも同じこと。1987年に教員になって30年。ノートを見て授業をしたことがありません。イディオム的要素を暗記して引出しに収め、場を観察しながら要素の組合せや要素群の選択を変える。90年代半ばは忙しかったので、学生から「先生、眠りながら喋ってますよ、眠りながら喋れるって凄いです」と言われるようになりました(笑)。

 喋りも演奏も武道も同じ。修練で自動機械になれる。武道では自動機械化していなければ戦いに負ける。演奏が自動機械化していなければ人には聴かせられない。喋りが自動機械化していなけれは論争に負ける。他の人が自動機械化できずに“意識”を使う部分を、自動機械化で負担免除し、余った“意識”を自動機械の観察に使う訳です。

 但し、練習不足で自動機械化が不十分だからと“意識”を使って前に進む営みも、自動機械です。また、負担免除で余った“意識”による自動機械の観察もルーチン化=自動機械化します。ならばそこで余った“意識”を「自動機械を観察する自動機械の観察」に向ける。僕の性愛ワークショップでも「抽象水準を上げること」を推奨してきました。

 抽象水準を上げられないとは低レベルの自動機械であり続けること。そういう自動機械化は“悪い”。他方、自動機械化できることは徹底的に自動機械化した後に“意識”を幽体離脱させること。そういう自動機械化は“良い“。“良い悪い”はカントの自由意志論の枠組です。いずれにせよ「いいね!」ボタン収集は、低レベルの自動機械です。

 この自動機械は、非承認を気にする弱さゆえに、ノイズ耐性が低くて「使えない」。SNS的右往左往に見られる低レベル自動機械の、低ノイズ耐性ゆえの臆病さが、主体を抹消した表層から先に進むのを妨げ、低レベル自動機械からの離脱を不可能にします。そんな営みが紡ぎ出す自己像や人間関係は、入替可能性ゆえに尊厳を欠きます。

 「いいね!」ボタン収集は強迫的で病的だとの自覚も進みました。本人を含めて誰から見ても不幸そうだからね。こうした自動機械の強迫的営みが織り成すのが<クソ社会>。[内からの力=非合理=主体=入替不能=幽体離脱的“意識”=高ノイズ耐性]系列ならぬ[損得勘定=合理=没主体=入替可能=低レベルの自動機械=低ノイズ耐性]系列です。

 前者の非合理性系列が「使える」のに、後者の合理性系列が「使えない」というのは、逆説的です。しかし多くの修羅場を経験した者には、合理的であることが必ずしも合理的でなく、非合理的であることが必ずしも非合理ではないのは、自明です。「意識高い系」が実は「意識が低い」というのは、自明の理を弁えない頓馬だということです。

 合理的な「非合理性系列」が消え、非合理的な「合理性系列」一辺倒になる境目が80年代。中森さんがノイズ耐性が強いのは僕らまでと仰言ったのに関係します。80年代は合理と不合理が綾をなす。オシャレなナンパが体育会系営みの賜物だったのが象徴的。今の3倍に及ぶナンパ体験率は、先輩から強いられること抜きにあり得なかった。

 合理と不合理の綾が過剰さを可能にしたということです。僕が東大助手になった87年から、学生院生らとの代々木公園での花見を仕切りました。当時はどこのグループも火を焚いていて、時々パトカーが公園内を巡回して注意するんだけど、言い方が面白い。「公園内の焚火は禁じられております…そこの君たち火が大きすぎるぞ」(笑)。

 [建前/本音]的なお目こぼしは随所にありました。80年代と言えば『トゥナイトⅡ』「山本晋也のマジメな社会学」が火付役のニュー風俗とテレクラ。僕は取材者として、お目こぼしと引き替えの「情報入手と、袖の下」がフィーバーを支えたのを知っています。[法/不法]の両義性に耐える力が、街の微熱感をもたらしていたんだよね。

 ところが両義性に耐えられない、合理的で神経質な「新住民」が街をフラットにしちゃった。かくして三島由紀夫が「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と予言して四半世紀後、単に入替可能な日本が完成した訳です。

 分水嶺だった80年代。中森明夫・庵野秀明・岩井俊二・園子温・宮台らは20歳代でした。因みに「震災とオウムと援交の95年」を辛うじて記憶するのは86年生まれまで。87年以降に生まれた世代が物心が付くのが、アジア通貨危機と平成不況深刻化の97年以降。それから20年。社会は次第に悪くなったものの、どこにも画期はありません。

 ゼロ年代の2ちゃん全盛期、「2ちゃん実況を気にするプロデューサーやディレクターはクビにしろ」と叫びました。ラウドマイノリティ(声だけデカイ少数者)の怒声で番組を曲げたら反民主的だと。幾つかの試算ではウヨ豚の人口比率は1%未満。でもネット上では増幅して見えるから恐がる。でも“意識”を使えば「笑える規模」だと判ります。

 笑えるのは規模だけじゃない。自己像や人間関係のホメオスタシスを支える<妄想>に固執するから、<妄想>が事実に反すると指摘されても、何処吹く風で<妄想>を吹聴する。そんな神経症的コミュ障クラスタが増殖中です。日本だけじゃない。英国の「ポスト・トゥルス」も米国の「オルタナティブ・ファクト」も、<妄想>ホメオスタシスです。

 こうした<妄想>固執クラスタが増殖する背景が重大です。園子温の「父憎し」と対照的に「母憎し」映画を撮り続けてきたグザヴィエ・ドランの最新作『たかが世界の終わり』は、子を手前勝手な<妄想>に巻き込む母——園子温の場合は父——も、そのまた親の<妄想>に巻き込まれた犠牲者なのだ、と再帰的に“意識”することで赦す映画です。

 そこには、個別化された共約不能な<妄想>を人々が生きている大規模定住社会の今日こそ<クソ社会>の実態だとの洞察があります。共約不能な<妄想>に脅かされるから、SNSに見られる「自動機械的な表層への強迫」があり、排外主義に見られる「<妄想>共有への信頼崩壊を被害妄想の共有で埋め合せることへの強迫」があるのは確かです。

 なぜ共約不能な<妄想>が個人を分断したか。ドラン作品が答え。僕が援交取材を元に20年前に主張した「専業主婦廃止論」の論拠に似ます。親が子を抱え込むと「<妄想>の玉突き」が生じます。子には親の要求が分かっても、要求を生み出す親の<妄想>の全体像は分からない。だから自己像の一貫性を保つべく、<妄想>を紡ぐのです。

 親の<妄想>に適応するための自分の<妄想>。子が長じて親になると同じことを繰り返します。「<妄想>に適応する為の<妄想>」即ち「<妄想>の玉突き」です。古い社会には親が子を抱え込むことなどあり得ません。家族は共同体に埋め込まれてラカンの「父の名」が機能しました。共同体全体に共有を信頼された<妄想>を親が持ち込んだのです。

 要は<妄想>共有への信頼が社会から消え、家族が共同体に埋め込まれなくなった結果、母の欲望対象(ファルス)が自分ではないと知って無力感に苛まれた子が、父の機能を媒介に社会に適応するための<妄想>をインストールされるかわりに、歪んだ家族に適応するための社会的適応に役立たない<妄想>をインストールされるようになった。

 同じメカニズムが各所にあります。マクロ社会に適応するための<妄想>の不在をミクロ関係に適応するための<妄想>が神経症的に補償するメカニズム。居場所を与えるミクロな所属集団に同調すべく<妄想>に固着します。寂しい大学新入生が、最初にどの“鍋パーティ”に誘われたかで、どのセクトやカルトに入るかが決まるという訳です。

 かくしてイデオロギー対立に見えるものも全てが居場所対立になります。所詮“鍋パーティー問題”に過ぎないものを思想対立だと頓馬にも思い込んだ段階で、経験してきた不幸が生温いのだと断言できます。<妄想>による補償など、所詮は叙情的で贅沢な“お花畑”に過ぎない。世の中にはそんなことではどうにもならない不幸があります。

中森:それはこの本の中でも、「キム・ギドク初期三部作」という章で書かれていますね。いかに過酷な環境で育ち、なぜその才能が生まれたのかと。

宮台:映画を観れば誰だってキム・ギドクは凄いと感じます。例えば僕は「自分よりずっと過酷な経験をしてきたのだろう、その経験ってどんなものだったろう」と考え、実際ギドクに会ってあれこれ聞き出したりもしました。ギドク作品のように、自分よりも遙かに世界を知る人間が撮っているんだろうと思える映画が、ときどきあるんです。

中森:あるある。アメリカや日本の作品だけじゃなくて、イランからでもどこからでも、不思議なものでそういう映画が出てくる。しかも、宮台さんが言ったように5分でそれが分かるというのが、映画だなと思って。

宮台:昨今の日本映画は何も知らない頓馬が撮っていると確信できるものばかり。僕は「<世界>は確かにそうなっている」という“気づき”を得たい。

中森:その“気づき”というのが大事なんですよね。僕は今、アイドル入門本を書いていて、アイドルにとって一番大きいものは何かなと考えたときに、けっこう運なんですよ。秋元康も言っているけれど、AKB48に入っていなかったらとか、そもそもアイドルブームじゃなかったらとか、運によるところが大きい。運というのはどうしようもないものに思えるけれど、まさに気づくことなんですよね。運は出会いの才能じゃないですか。例えば、宮台さんがバクシーシ山下の『女犯』を観て、これはすごいと気づいてすぐに制作会社に電話して、彼と会った。これができるかどうかだと思う。「運が悪い」と言っている人は、けっこう気づいていないだけなんですよ。出会いの才能というのは人だけじゃなく、映画もそう。だから、この本は“気づき集”でもありますよね。ある映画から、何を気づいたか。

宮台:中森さんとの共通性は“気づき”を得たいといつも思っていること。皆は気づきに対する願望水準が低すぎるよ。マインドフルネスみたいな瞑想ブームだけど、「瞑想の時間を設けて、自分がどんな状態かに気づき、自分をファインチューニングすれば、今日はちょっといい日になる」とか低レベルすぎて笑える。そうじゃないでしょ。

 戦闘状態の最中に幽体離脱する“意識”こそが必要なの。自分に気づいても詮ない。自動機械化した「主体のような非主体」から幽体離脱すれば、演奏や武道を持ち出すまでもなく自分と世界(相手や観客)の関係に気づける。映画批評で「<世界>からの訪れ」と表現してきたが、それは根源的な受動性の体験だ。自分を見ることなんかじゃない。

中森:10数年前、世界系が流行した当時は、まだ世界の問題と自己の問題を直結するところがあったけれど、今は世界がなくなって、自己承認欲求だけになってしまった感覚がある。

宮台:「いいね!」ボタンは自己承認のインフレを象徴する。むろん思い定めた「重要な他者たち」からの承認は大切だ。所属集団ならぬ準拠集団から「見られる」体験、眼前の他者ならぬ不在の第三者から「見られる」体験は、絶えずうごめく所属集団や眼前の他者への、ダイレクトな反応を遮断します。それがないと右往左往するヘタレになるよ。

 逆に言えば、「重要な他者たち」からの承認不足は、「いいね!」ボタン収集の如き有象無象による承認の神経症的掻き集めでは埋め合せられない。どうでもいいクズから承認されなくても「どうでもいい」。どうでもいいクズから承認されても「どうでもいい」。「どうでもいい」という感覚を用いて「右往左往する周囲」を切断しなきゃダメだ。

中森:日本は社会が弱っているから、そうなっているということ?

宮台:<クソ社会>ぶりを覆い隱せなくなったという意味では弱っているのは確かだけど、クズから承認を掻き集めるゲームに勤しめるのは、それでも生きていけるくらい日本がヌルマ湯だからです。そんなふうに生きられる程度には日本は恵まれている。僕の院ゼミは8割が中国人留学生だけど、中国は過酷だからそれはあり得ないんです。

      

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