宮台真司の『ニュースの真相』評:よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない

宮台真司の『ニュースの真相』評

アメリカは「腐っても鯛」だったが

 『ニュースの真相』(8月6日公開/ジェームズ・ヴァンダービルト監督)は、前編で論じた『シン・ゴジラ』とシンメトリカルであるという印象を受けました。双方ともに、特定の人物よりも、行政官僚制ないし組織自体が主人公であるかのような、作品だったからです。

 『ニュース~』は、CBSの看板番組『60 Minutes Wednesday』のプロデューサーだったメアリー・メイプスの自伝を基に、2004年にアメリカを騒然とさせたジョージ・W・ブッシュ大統領の軍歴詐称報道に関する「誤報騒動」を描きます。知る限りでは「誤報騒動」を描く初めての作品です。

 『シン・ゴジラ』では、「過去にあり得た行政官僚制の栄光」の姿が描かれ、「しかし現在は…」という落差が、強い諦念を感じさせました。本作でも、「過去にあり得た米国マスコミの栄光」に引き比べた「しかし現実は…」いう落差が、諦念を抱かせます。元気を奪われる映画だと言えます。

 多くの「陰謀暴き」の映画──『大統領の陰謀』(1976)、『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)──は、「米国は酷い国だが、酷さを暴露する数多の表現がある以上、やはり捨てたものではない」との印象を残しましたが、『ニュース~』を観た後に「捨てたものではない」という言葉を口にするのはとても憚られます。

 「米国は腐っても鯛」と感じられた頃、人は米国の政府を批判しても、米国マスコミ表現に希望を託しました。昨今では、人気番組の出演者だったトランプの、ヘイトスピーチ紛いの発言「による」躍進を見るにつけても、「捨てたものではない」と米国マスコミを庇護う意欲は、萎えがちです。

 昨今の映画製作者は誰もがそれを弁えているでしょうが、『ニュース~』の制作陣も同じで、だからこそ、反逆者を主人公とするハッピーエンドの英雄譚にはできなかったのでしょう。米国はもっと酷い状況に向けて突進するしかないだろうという予感を披露する作品になっています。

敵陣営・味方陣営、どちらの仕掛けか

 『ニュースの真相』には単純な敵/味方図式がありません。メアリー・メイプスは陰謀に巻き込まれたと主張するものの裏取りや鑑定の甘さは弁護できませんが、加えて陰謀が何だったのかも描かれません。反ブッシュ側の陰謀か。ブッシュ側の陰謀か。どちらもあり得る話です。

 メイプスらは反ブッシュ側の立場ですが、メイプスらを騙した陰謀の仕掛人がどちら側でもあり得るという事実に、言いようのない無力感を覚えます。反ブッシュ側の陰謀だとすると、印字がタイプライターでなくパソコンフォントだという杜撰さが、不自然な失敗だなと感じさせます。

 捏造文書が、内幕を詳細に知る者にしか書けない内容だったことに引き比べると、どこにでも探し出せる古いタイプライターを「敢えて」用いずにマイクロソフト・ワードを用いて文書作成する杜撰さが、過剰にアンバランスです。観客はこれを自然なミスだと考えることができないのです。

 他方、反ブッシュ側を挫くブッシュ側の陰謀だとすると、人々をブッシュ軍歴疑惑に圧倒的に釘付けにした後に、その注目点を軍歴の詐称という「本体」から、杜撰な報道という「枝葉」へとシフトさせられるかどうかが、確実とは言えないことが、陰謀としては不自然だと感じさせるのです。

 軍歴疑惑の道を確実に潰せる自信があるとすれば、炎上の仕掛けに相当なリソースを注ぎ込んでのことになります。大量のリソース動員は、仕掛けが露呈する確率を上昇させます。「個人ブログ」で「真実」が暴かれた最初のケースであるという事実を見れば、これは相当な賭けです。

推定無罪の法理と、名誉毀損の法理

 近代法には「疑わしきは罰せず」の原則があります。「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑することなかれ」。マスコミ「も」個人の名誉を「疑わしい」というだけで毀損することは許されません。国家(統治権力)もマスコミ(第3権力)も強大で、牽制しないと権力が個人を破壊します。

 他方、近代社会では名誉毀損の基準は非一律です。米国では名誉毀損の対象者を、公人・準公人・市民に分類しますが、この順に対象者の側が反証責任を負い、逆順にマスコミが挙証責任を負います。真実性の証明が不完全でも、事実の公共性と目的の公益性が違法性を阻却するからです。

 誤報とされたのは、番組が公表した、州兵時代のブッシュの上官キリアン中佐の文書で、州空軍スタウド大佐がブッシュの訓練評価に手心を加えるよう要求してくるが、評価に関わる期間にブッシュはいなかったとの内容です。このスタウドの部隊に入隊してベトナム行きを免れたのです。

 キリアン文書に併せて提供された軍歴情報は軍関係者以外には知り得ない真実だったので、キリアン文書が偽造だったにせよ、軍歴疑惑の指摘自体の誤りの証明にはなりません。その意味では、資料が不適切だったという事実はあっても、通常言われるのとは違い、「誤報」とは断定できません。

 なのに、一つの資料が偽造だったことから、偏向報道ぶりがネットを中心に徹底的に攻撃され、軍歴疑惑自体が虚偽であるかの如く扱われました。この手法の成功が学ばれたのか、日本でも、一つの証言が虚偽だったことから、偏向報道ぶりが攻撃され、慰安婦問題自体が虚偽扱いされました。

 そこでは、CBSや朝日新聞の報道に見られる杜撰さ(に見出される社内体質)の問題と、ブッシュの軍歴疑惑(に見出される大統領としての資質)の問題とが、混同されています。「報道は杜撰だったが、軍歴疑惑は変わらない」という当然の理解が、敵味方図式の中で完全に抑圧されるのです。

 ブッシュの軍歴疑惑報道については、事実の公共性と、目的の公益性を疑うべくもありません。ブッシュが軍歴を誤魔化す輩であるか否かは、大統領としての資質に関わる問題で、公共的です。加えて、こうした公共的な情報の提供を図る取材活動が、公益を目的とすることも、明らかです。

 名誉毀損の法理に準じれば、CBSの軍歴疑惑報道は名誉毀損に当たりません。その立法目的に遡れば、ブッシュ側は一般市民と違う公人a public figureなので、軍歴疑惑が濡れ衣に過ぎないことを挙証する責任を多少なりとも負わねばなりません。でも、こうした理路が無視されたのです。

反知性主義批判という能天気なズレ

 確かに由々しきことですが、この映画はズレています。ネット炎上を利用したポピュリズムを「反知性主義」と呼んで批判する能天気さと同じものが見られるからです。取材資料の不適切性ゆえに偏向ぶりが攻撃され、主題(軍歴問題や慰安婦問題)自体が否定される過程は、反知性的です。

 ですが、僕は「反知性主義」という言葉に異を唱えています。かわりに「感情的劣化」という言葉を使えと推奨しています。その理由は、最近の米国におけるオルタナ右翼Alt Right、中でもシリコンバレー系の技術者たちの一部がコミットする新反動主義Neo Reactionismの流れです。

 米国的な伝統に倣って、新反動主義は思想・哲学というより気分・精神です。従って学問的先行業績への参照は皆無に近く、語彙も理系的な稚拙さに満ちます。しかし主張の骨子は、僕が見るに、極めて知的だと感じます。だから僕は新反動主義的なトランプ支持を、反知性的だと感じません。

 この映画はブッシュJr二期目の大統領選のあった2004年に起こった事件を回顧する手記を原作にします。それから12年の間に米国社会(を含む先進社会)に何か重大な感情的地平の変化があったのです。僕は「感情の劣化」と呼びますが、この変化は技術の進歩が絡んだ必然的なものです。

 この必然性をこれから述べていきますが、最終的にはソレを「感情の劣化」と呼ぶ立場自体が脅かされることになります。そのことには数年前から気付いていましたが、米国のトランプ現象の背後にあるテクノロジストの動きを見るにつけても、真実を語らなければならなくなりました。

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