朝マックはなぜ高齢者の居場所になったのか? 雑談をする友人すらいない“中年男性問題”を考える

ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第40回は、朝マックと高齢者のサードプレイス問題について。
朝マックはなぜ高齢者の場所に?
たまに早起きをして、朝マックに出かける。かつての朝マックには、少し華やかなイメージがあった。出勤前のオフィスワーカーたちが、足早に食事を済ませ、コーヒーを飲んで職場へ向かう。そんな光景を思い浮かべて店に入るのだが、いまの朝マックには、それとは少し違う風景が広がっている。
目立つのは、高齢者の1人客である。誰かと待ち合わせているわけでもなく、急いでいるわけでもない。朝マックは、いつの間にか高齢者の1人客が時間を過ごす場所になっている。この変化は、日本社会の変化をよく表している。
そもそも日本の朝マックは、1985年にブレックファストメニューとして始まった。当初の狙いは、忙しい会社員が出勤前に素早く朝食を取れる場所を作ることだった。やがて客のあいだでマクドナルドの朝食を「朝マック」と呼ぶようになり、その名前が定着した。
さて、朝マックが、いまは高齢者の場所になっているのはなぜか。日本の生産年齢人口は、この30年で一貫して減っている。まずはその反映だ。さらに、いまの高齢層はすでにファストフードに抵抗のない世代。1985年に20代、30代だった人たちは、いまでは60代、70代になっている。いわば朝マック第一世代である。さらには、かつて町のあちこちにあった個人経営の喫茶店が、かなり姿を消してしまったことも大きい。その受け皿が、朝マックになっている可能性はある。ともかく、こうした変化が積み重なった結果、いまの朝マックの風景が生まれている。
朝マックが高齢者の場所になったことは、別に悪いことではない。高齢者にもサードプレイスが必要である。サードプレイスとは、自宅でも職場でもない、ほどよく時間を過ごせる場所のことだ。1人でいても奇異な目で見られず、完全に孤立しているわけでもない。僕の意見も交えると、理想のサードプレイスとは、適度に人の気配があり、必要以上に話しかけられない。そういう場所である。その意味では、朝マックは現代のサードプレイスとして、そこそこよくできている。
ただ、20年前であれば、早起きの高齢者が出かける場所として、町の喫茶店が機能していたはずだ。安いモーニングを食べ、新聞に目を通しながらコーヒーを飲む。常連であれば挨拶を交わすだろうし、店のマスターとちょっとした話をすることもあったはずだ。世間のことに関心を持ちながら、人と適度に触れる。朝マックもその延長線上にある。ただし、そこでは店員と会話を交わすことはほとんどない。新聞も置かれていない。朝マックが理想だとは言い切れない。わびしさの方が先に立つという人も多いかもしれない。
低価格の外食産業が果たしている役割
マクドナルドに限らず、ファストフード店やチェーンの飲食店では、高齢者が1人で食事をする光景をよく見かけるようになった。低価格で食事ができ、コーヒーを飲みながら少し時間を過ごせる場所。それは、ある意味で社会福祉の代替のような役割も果たしている。
ただし、牛丼福祉問題は炎上を呼びがちな話題だ。日本では、ファストフード店に行けば、500円前後で温かい食べ物にありつくことができる。インフレによって価格は少しずつ上がっているが、それでもまだ安い。とくに牛丼チェーンは、全国に店舗があり、価格もほぼ均一である。研ぎ澄まされたサプライチェーン、かつては安価で有能な人材を確保しやすかった労働市場、そしてチェーン店としての規模の経済。それらの総合力によって、500円前後の丼ものや、700円程度の定食が提供されている。
全国津々浦々とまではいかないが、牛丼チェーンは地方部にもかなり行き届いている。適度な競争があり、どこに行っても同じ価格で、ほぼ同じ品質の食事ができる。この仕組みは、結果として、事実上の社会福祉のような役割を果たしている。ただ、それをそのまま社会学者などが発言すると、しばしば炎上する。
牛丼福祉問題を指摘すると、なぜ炎上するのか。安いチェーン店の存在を理由に、本来必要な社会福祉の整備を怠るのは本末転倒だからだ。理想論としては、その通りである。低価格の外食産業があるから生活困窮者の食事はなんとかなる、という話にしてしまえば、行政の責任が見えにくくなる。
とはいえ、行政が福祉サービスを展開すればそれで必ずうまくいく、とも言い切れない。制度はしばしば割高で使いにくいものになる。だから、低価格の外食産業が実際に果たしている役割をきれいごとだけで否定することもできない。少なくとも僕には、そう見えてしまう。
吉田類にはなれそうもない中年男性たち
老後の問題は、他人事ではない。自分の老後として、どんな生活をイメージできるのか。理想像としては、吉田類のような生き方が浮かぶ。山登りを楽しみ、地元のいい雰囲気の居酒屋を訪ねる。そこには陽気な常連たちがいて、楽しい時間を過ごす。最後に詩を書くかどうかはともかく。
いや、そんな老後はまったく浮かばない。なにより、居酒屋で隣の人と話しているうちに仲良くなる、という部分のハードルが高すぎる。誰しもが吉田類的なコミュニケーション能力を持っているわけではない。
朝井リョウの小説『イン・ザ・メガチャーチ』が本屋大賞を受賞し、あらためて注目を集めている。この小説で描かれる推し活に熱中する女性たちは、ある意味では、皆、仲間と協調できる人たちである。行き過ぎた活動かもしれないが、それぞれに居場所があり、関係があり、活動を楽しんでいるのだ。
一方で、登場人物の男性には、雑談をする友人すらいないキャラクターとして描かれる。この小説が向き合う現代の社会問題は、行き過ぎた推し活ではなく、中年男性問題だ。世の中には、吉田類にはなれそうもない中年男性たちであふれている。そうした物語を、中年男性の読者も多い日本経済新聞で連載していた朝井リョウは、かなり意地が悪い。
























