速水健朗のこれはニュースではない
『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』から考える、AIが持ちうる倫理のあり方

ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第38回は、ドラえもんとAI戦争と記念撮影のテクノロジーについて。
フィルムカメラの時代の特技
中学生の頃は、まだフィルム交換が必要なカメラの時代だった。交換にはちょっとした慣れや知識が必要で、クラスでそれができるのは当時、カメラ少年である僕だけだった。皆がカメラを持ってくる運動会の日になると何人もの女の子たちがどこで聞きつけたのか僕のところにやってきて「速水くん、フィルム交換お願い」と声をかけてくるのだ。
フィルムカメラといっても、80年代後半にはもう手巻き式ではなかった。モーター式の自動巻き上げのカメラが普及しつつあった。最新機種ならフィルムを入れてふたを閉めるだけでいいのだが、もっとも普及していたのは、フィルムのベロを少し引き出し、端の穴をスプロケットに噛ませてからふたを閉める必要があるカメラ。少々のカメラの知識があれば簡単にできることだが、中学生くらいだとまだ自分のカメラを持っている子も少なく、ゆえに僕の活躍の場になったのだ。
運動会明けの月曜には、クラスメートたちがミニアルバムを持ってきて、互いに見せ合っていた。この頃は、町のあちこちにフィルム現像の取次店やプリント屋があった。プリント1枚10円をうたうのぼりが立っていたが現像代もかかるので、24枚撮りなら全部で1000円前後だったように記憶している。とにかく現像とプリントのスピードはどんどん上がっていた。80年代後半には即日仕上げも珍しくなくなっていた。
その皆が写真で運動会を振り返る中で、鈍感な僕はやっとそこで気づく。女の子たちが撮っているのは、短距離リレーに出ている足の速い男の子たちだけだ。その写真を本人にプレゼントしたりもしている。俺はまったく被写体としては写っていない。つまり、写真を撮るのは女の子たち、フィルムを交換するのは俺、撮られるのは走るのが速い男の子たち。なるほど、よくできた分業である。
いや単に都合のいい道具として使われただけといえばその通りなのだが、それでも普段は口をきく機会もほとんどない女の子たちと話ができるのだから、ないよりはずっとよかった。ちなみに翌年には、写ルンですが大流行する。レンズ付きフィルムは、フィルム交換という僕の特技そのものが無意味になってしまった。テクノロジーの進化はおそろしい。
ドラえもん史上屈指の名キャラクター
さて、現在公開中の『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』を見てきた。1983年公開の『のび太の海底鬼岩城』のリメイクである。先日訃報が伝えられたアニメーション監督の芝山努が手がけた、最初のドラえもん映画でもある。バギーちゃんが登場する、涙なしには見られない名作だ。旧作は興行成績の面ではシリーズ内でやや地味な位置づけだったとも言われるが、名作は名作である。
本作の重要キャラクターにバギーちゃんがいる。海底を移動するための乗り物だが、会話もできるAI搭載型のオートパイロット車である。これは1983年のオリジナルでも同じ設定だ。このバギーちゃんが、人間の感情を理解していくことが、本作の重要な物語になっている。
途中、海底を冒険するのび太たちが記念写真を撮る場面がある。バギーちゃんは、それが不思議でならない。なぜ人間は、写真というかたちで思い出を残そうとするのか。バギーちゃんは、そもそもすべての状況をデータとして記録している。あえて「はいポーズ」とシャッターを切らなくても、記録は残されているのだ。それを問われたしずかちゃんは、記憶を物として残すことの意味をバギーちゃんに伝える。物語の冒頭では、バギーちゃんは人間を道具に頼らなければ何もできない悲しい存在として見ている。だが、しずかちゃんとの交流を経るなかで、人間特有の思考のあり方に関心を持つようになる。ここはラストでのある描写の伏線でもある。思い出は物質として残す必要がある。
本作のテーマは「進化」だ。深海に出かけたのび太たちは、ひみつ道具のテキオー灯を使うことで、水圧に押しつぶされず、光の届かない場所でも周囲を把握できるようになる。人間がどのような環境でも順応して快適に過ごせるようにする道具である。深海の生物たちは、何世代も、何十万年もの時間を経て自然選択の末に環境へ適応してきた。それを一気に短縮するのがテキオー灯だ。しかも万能ではなく、24時間だけという制約がある。その設定が絶妙である。
この設定によりのび太たちの冒険がスリリングなものになる。スネ夫とジャイアンが、勝手に幽霊船を探しに出たためにトラブルが起きて、のび太たちは海底人と出会う。海底人たちは、かつて地上で生活をしたが、海中での生活を選び地上人たちとは分岐した「進化」を遂げた人々なのだ。
機械は進化の末に人間性を得ることができるのか。そこも「進化」を巡る話。ラストでは、バギーちゃんがしずかちゃんを守るために自己犠牲を選ぶ。映画館じゅうからすすり泣きが聞こえてきた。僕は初日の金曜日、平日に見た。この日の昼から劇場に居合わせるのは、本格的なドラえもんファンたち。皆、ドラえもん史上屈指の名キャラクターのこの場面を知りながら見に来ているのだが、それでも泣いてしまう。
思い出すのは、テレビ版の『鉄腕アトム』や、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のタチコマたちである。機械が自らの意思を持ち、自己犠牲を選び取る場面。日本のアニメでは、ロボットの自己犠牲が繰り返し描かれてきた。僕は感動ヒューマニズムドラマの類いには冷淡だが、ロボットの自己犠牲には涙腺が弱い。
とはいえ、この映画は、AIが大進化を遂げたあとの時代の作品でもある。もはや我々にとって、人間と区別がつかないレベルで自然な会話や文章生成をするAIは珍しくもない。すでにありふれた存在になりつつある。どれだけ感じのいい受け答えをしようが、個別の意思らしきものをシミュレートしようが、それだけで特段心が動かされることはない。にもかかわらず、映画の中のAIにだけ感情移入し、涙を流している。この奇妙なねじれがおもしろい。
映画ドラえもんが示す、AIの倫理
『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』の公開は2026年2月27日で、対イラン戦争開始とほぼ同時期だった。4年前には、北京冬季五輪閉会の4日後にロシアのウクライナ侵攻が始まり、その時期に『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』が公開されていた。フィクションが現実を先行し、反映してしまうことはよくあること。もちろん偶然ではあるのだが。
今回の対イラン戦争では、Palantirの軍事AI基盤や、Anthropicの軍事利用をめぐる国防総省とAI企業の関係が話題を呼んだ。AI企業が戦争利用にどう関わるのかが、あらためて可視化されたともいえる。『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』もまた、バギーちゃんというAI、ポセイドンという報復システムとしてのAI、そしてドラえもんというAI的存在の三つ巴によって成り立っていた。そこでも、AIが持ちうる倫理のあり方が、それぞれ異なるかたちで描かれている。
さらに、本作が1983年作品のリメイクであることも重要である。1983年は、レーガン時代のSDI構想、つまり人工衛星を利用したミサイル検知に象徴されるように、戦争の領域が宇宙空間へと拡張されていった時代だった。同時に、ファミリーコンピュータやLisa(翌年のMacintoshにつながるアップル製のマシン)のようなコンピューターが家庭に入り始めた年でもある。軍需産業の集積地として発展したシリコンバレーが、アップルのような民間用のテクノロジーで拡大していく転換がこの頃のこと。それが今、また逆に振れている。それらも踏まえ、今作のドラえもんは、戦争、技術などいくつかの観点から見ても重要なことをいくつも反映している。
























